論語 / 憲問篇
子曰:「晉文公譎而不正,齊桓公正而不譎。」
新字:子曰:「晋文公譎而不正,斉桓公正而不譎。」
書き下し
子曰く、晋の文公は譎にして正しからず、斉の桓公は正しくして譎ならず。
現代語訳
先生がおっしゃった。「晋の文公は策略を用いて正道によらなかった。斉の桓公は正道によって策略を用いなかった。」
解説
覇者として並び称される二人を、一語ずつで対比している。どちらも成功者だが、手段が違う。孔子は結果ではなく手段で二人を分けた。文公のほうが実際には成功していたともいわれるが、評価は逆になっている。成果で評価するなら区別できないものを、手段で見ることによって区別している。この評価軸は、実務でも意識して持つ価値がある。同じ売上、同じ達成率でも、どうやって取ったかで意味が変わる。無理を通したのか、筋を通したのか。前者は再現できず、しかも後で代償が来る。ただし、手段を評価軸に入れるには、経緯を知っている必要がある。数字は自動的に集まるが、手段は意識して聞かないと見えない。評価の場で「どうやって」を問う習慣があるかどうかが、この軸を持てるかを決める。
この章句が説くこと
覇者手段評価軸譎正道
関連する章句
-
『学問のすゝめ』十二編・人の品行は高尚ならざるべからざるの論・風俗取締りとはなんらの箇条をさして言うか方今日本にて学校を評するに、「この学校の風俗はかくのごとし。かの学塾の取締りは云々」とて、世の父兄はもっぱらこの風俗取締りの事に心配せり。そもそも風俗取締りとはなんらの箇条をさして言うか。塾法厳にして生徒の放蕩無頼を防ぐにつき、取締りの行き届きたることを言うならん。これを学問所の美事と称すべきか。余輩はかえってこれを羞ずるなり。西洋諸国の風俗けっして美なるにあらず、あるいはその醜見るに忍びざるもの多しといえども、その国の学校を評するに、風俗の正しきと取締りの行き届きたるとのみによりて名誉を得るものあるを聞かず。
-
論語・八佾篇子曰く、君に事えて礼を尽くせば、人以て諂いと為すなり。
-
論語・先進篇子曰く、我に陳蔡に従いし者は、皆門に及ばざるなり。徳行には顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓。言語には宰我・子貢。政事には冉有・季路。文学には子游・子夏。
-
『呻吟語』内篇・應務・利七にして害三君子の大事を動かすは、十利にして一害無ければ、其の之を舉ぐるや必せり。然れども天下に十利の事無し。已むを得ずして其の分數の多寡を權る。利七にして害三なれば則ち吾其の利を全うして其の害を防ぐ。又た其の事勢の輕重を較ぶれば、亦た九害にして一利なる者も之を為す有り。利する所重くして害する所輕ければなり。利する所急にして害する所緩ければなり。利する所得難くして害する所救ふ可ければなり。利する所久遠にして害する所一時なればなり。
-
『神皇正統記』巻二 第十六代 応神天皇此故に古の聖人、「道は須臾もはなるべからず。はなるべきは道にあらず。」と云けり。但其の末を学びて源を明めざれば、ことにのぞみて覚えざる過あり。其源と云は、心に一物をたくはへざるを云ふ。しかも虚無の中に留るべからず。天地あり、君臣あり。善悪の報影響の如し。己が欲をすて、人を利するを先として、境々に対すること、鏡の物を照すが如く、明々として迷はざらんを、まことの正道と云べきにや。代くだれりとて自ら苟むべからず。天地の始は今日を始とする理なり。加之、君も臣も神をさること遠からず。常に冥の知見をかへりみ、神の本誓をさとりて、正に居せんことを心ざし、邪なからんことを思給べし。
-
『士道心得書』・常は正道・變は詭道正氣を以て用とす。然るに常變との用差別有り。常の用は正道を以てし、變の用は詭道を以てす。然るに人々士の道と用とを辨へず、用ゐるに亦常變不正、故に混雜して、詭道を以て全くするを、士の道と心得違ふ事、是れ本を明かにせざるの誤りなり。孫子曰く、兵は詭道なりと。云ふ處の道は、武道の道に有らず、如何ぞ此の道に過り有るべけんや。故に孫子兵者と云へり。戰に臨みては詭道なりと云ふ事なり。戰は變なり。既に合戰に至りて、勝負に臨んでは、殊勝らしき正道仁義、仁者に敵無しなど云ふやうなる事にて、勝負の埒明く事に有らず。王道仁義全き論にては、合戰は有るまじ。唯だ聖人の敵へにて治平す。然れ共就中末世に及び、人の心直ならず、君臣父子兄弟朋友の道皆變ぜずといふ事なし、變なる時は、兵道にあらざれば、何ぞ是を治めん哉。聖人の道を守り、天下治まる時は、詭道の變、兵家者流の舌頭を動かすに及ばず。又仁者に敵無しといふは、大王の德の如し。先づ其の身仁者に成りての上の事なり。今の世に唯だ仁者といふ理有るのみにて、實に仁者はなし。