論語 / 子罕篇
子在川上曰:「逝者如斯夫!不舍晝夜。」
新字:子在川上曰:「逝者如斯夫!不舎昼夜。」
書き下し
子、川の上に在りて曰く、「逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎かず。」
現代語訳
先生が川のほとりでおっしゃった。「過ぎ去るものは、この流れのようなものか。昼も夜も休むことがない。」
解説
論語の中でも最も静かな一句である。解釈は分かれる。時の流れの速さを嘆いたとも、途切れずに続く水のように学び続けよという励ましとも読まれてきた。どちらの読みも成り立つのは、この言葉が結論を持っていないからだ。孔子は川を見て、そのまま言葉にしただけである。実務の中で忘れやすいのが、この種の時間である。判断も指示もない、ただ流れているものを見ている時間。効率で測れば無駄でしかない。だが、大きな決断をした人が振り返ると、決め手になったのはこういう時間だったと言うことが多い。予定を埋め尽くした人は、逝く者を見ていない。昼夜を舎かず流れているのは、川だけではなく、自分の時間のほうでもある。
この章句が説くこと
時間川流れ内省無為
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