驢鞍橋 / 卷上
一日僧問ふて曰く、一つ凡夫にして悲みて死すると、亦何とも思はす死するとは、何れが是ならんや。師答て曰、一樣には云れす、乍去大すうを云はゝ、やれ死するか悲しやと云ひて死する者は、□亦死を何共思はぬは、まだ業の甚だしき者と思はるる也。其故は□をも、成敗に逢へども何とも思はざる物也。
新字:一日僧問ふて曰く、一つ凡夫にして悲みて死すると、亦何とも思はす死するとは、何れが是ならんや。師答て曰、一様には云れす、乍去大すうを云はゝ、やれ死するか悲しやと云ひて死する者は、□亦死を何共思はぬは、まだ業の甚だしき者と思はるる也。其故は□をも、成敗に逢へども何とも思はざる物也。
書き下し
一日僧問ふて曰く、一つ凡夫にして悲みて死すると、亦何とも思はす死するとは、何れが是ならんや。師答て曰、一様には云れす、乍去大すうを云はゝ、やれ死するか悲しやと云ひて死する者は、□亦死を何共思はぬは、まだ業の甚だしき者と思はるる也。其故は□をも、成敗に逢へども何とも思はざる物也。
現代語訳
ある日、僧が尋ねて言った。同じ凡夫で、悲しんで死ぬのと、何とも思わずに死ぬのとでは、どちらがよいでしょうか。師は答えて言われた。一様には言えない。とはいえ、おおよそを言えば、ああ死ぬのか悲しいと言って死ぬ者は、□また死を何とも思わないのは、まだ業のはなはだしい者だと思われる。そのわけは、□をも、処罰に遭っても何とも思わないものだからである、と。
解説
悲しんで死ぬのと平然と死ぬのとどちらがよいか、という問いに、正三は、死を何とも思わない者はかえって業が深い、と答える。この条は底本の行が崩れていて、悲しんで死ぬ者についての答えと、理由の一部が読めない。それでも、死を恐れず平然としていることが、必ずしも悟りの証ではない、という正三一貫の考えは読み取れる。無感覚と平静は違う。痛みを感じないことを強さと取り違えるな、という戒めである。
この章句が説くこと
死業無感覚平静問答欠損
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日聚会の次で、一僧去る病体の和尚に向つて云く、悪病抔出でざる様になさるべし。若し悪病出でば、大に人の為めに怨と成るべし。師聞て曰く、扨も詮なき事を云ふ人かな、如何なる病をか受け、如何なる死をかせん。我人知られてこそ因果次第也。従今分別するとも争かあたらんや。唯今修する処にこそ詮議はあれ、後はひつてひり破つても、死にめされよ。只死しても奇麗にもをりないぞ、野に成りとも山に成りとも只捨てめされよと也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る処へ至り玉ふに、其家の代官知行処へ往くとて、途中にて少し煩ひ死しける由申来る。師聞き愕然として曰く、扨々不便千万の事哉、我をも娑婆をも実に有ると思ひ居て俄に死す。苦み計り難し、嘆痛敷事也。爰を以て思へは少し志有りて、今か今かと片腰懸けたる様にも思ひ居る者は、亦大なる徳也。其日さまざまの事有り、晩に至りて曰く、一日徒に飮食したり、闇魔王に腹を打破られんすよと也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る遁世者来て、修行の用心を問ふ。師示して曰く、万事を打置て唯死に習はるべし。常に死に習つて、死の隙を明け、誠に死する時、驚かぬやうにすべし。□て死に習はるべし。彼者云、盲安杖を常に披見仕る、是等を見る事も悪しや。師曰、見て覚ゆる事は皆怨也。只念仏を以て死を軽くすべし。
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『驢鞍橋』卷上夜話の次て、去る者我元より死をなにとも思はぬと云ふ。師聞て曰く、其はよき事にこそあらんずが、修行は上がるべからす。我は死ぬかいやなに因つて、生き通しにして死なぬ身と成りたさに修行はする也。死なぬ身とならぬ中は、世々生々をかけて修せんと思ふ機慥に持つ也。亦其方死をなにとも思はぬと云ふても、道人には非す、さありとも自己の主人六根自由する物を知るへからすと也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る人云ふ、今時無欲に見えたる者、死期悪き事多し。又欲深き抔と人に云はれたる者、結句死期よき事あり。是れ何れの道理なりや。師聞て曰く、無欲のやうに仕成して人によく云はれたる者、名聞深く娑婆の機の强き人也。此故に死期悪し。亦欲深く見えて人に悪く云はるゝ者死期能きは、名聞薄く娑婆執着の念軽き人なるべし。徒然草の芋喰坊主抔にて知るべしと也。因に語て曰く、善人悪人は必ず死後に知る物也。善人の死したる後は、さつはとして清浄の機移る物也。悪人の死したる後は何とやらんすさまじき物也。
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『驢鞍橋』卷上一日亡者弔ひの次て、師愕然として曰く、皆人計りを弔ふ弔ふと思つて、我も頓て弔らはるへしと云ふ事を知らず。仮にも思ひよらず、只有りて俄に詰りてぎくついて死す。さても暗き物哉と也。