驢鞍橋 / 卷上
夜話に曰く、此前寳物集にて、佛因地の時四句の文に身を代へ給ふ因緣を始めて見し時、諸行無常の意ひしとうつり、我も小指一つには替ふへき心有りし也。然れとも今に有るに非ず。乍去爰を以てこそ今に亡者をも吊ふ也。生滅滅已寂滅爲樂迄は知らず、諸行無常是生滅法は我慥に知ると也。
新字:夜話に曰く、此前宝物集にて、仏因地の時四句の文に身を代へ給ふ因縁を始めて見し時、諸行無常の意ひしとうつり、我も小指一つには替ふへき心有りし也。然れとも今に有るに非ず。乍去爰を以てこそ今に亡者をも吊ふ也。生滅滅已寂滅為楽迄は知らず、諸行無常是生滅法は我慥に知ると也。
書き下し
夜話に曰く、此前宝物集にて、仏因地の時四句の文に身を代へ給ふ因縁を始めて見し時、諸行無常の意ひしとうつり、我も小指一つには替ふへき心有りし也。然れとも今に有るに非ず。乍去爰を以てこそ今に亡者をも吊ふ也。生滅滅已寂滅為楽迄は知らず、諸行無常是生滅法は我慥に知ると也。
現代語訳
夜話で言われた。以前、『宝物集』で、仏が修行時代に四句の偈文のために身を投げ出された因縁を初めて見たとき、諸行無常の意味がひしと移ってきて、私も小指一本とは替えてもよいという心があった。けれども、それが今もあるわけではない。とはいえ、これがあればこそ、今も亡者を弔うのである。生滅滅已、寂滅為楽までは知らないが、諸行無常、是生滅法は、私は確かに知っている、と。
解説
雪山童子が、諸行無常の偈の後半を聞くために鬼に身を投げ出したという説話を読んで、正三は無常を深く感じ、小指一本なら替えてもよいと思ったという。四句のうち、諸行無常・是生滅法(すべては移り変わる)は確かに知っているが、生滅滅已・寂滅為楽(その先の安らぎ)まではまだ知らない、と率直に言う。分かったことと分からないことを正直に区別する姿勢は、学ぶ者として最も信頼できる態度である。
この章句が説くこと
諸行無常雪山童子宝物集正直無常偈
関連する章句
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『驢鞍橋』卷下我も宝物集にて諸行無常の文に、雪山童子命を代へ給ふ因縁を見て、ひしと諸行無常の意移りたり、又その後六十の年、去る暁寅の刻、仏の三界の衆生を一子の如く思召御心ひしと移る。誠にその時は蟻螻を見ても、生涯を楽み苦む有様、憐に思ひ、何とそ救ふ方便や有らんと、髄に透つて思れたり。その心も三日乗て失す。乍去是は今にも徳になるなり。其よりして少し慈悲心起れり、又性の位も無きに非ず、是れも六十一の歳八月廿七の日、明くれは甘八日の暁、はらりと生死を離れ、慥に本性に契ふ。その当意は只なしなしなしなしと躍て計有度心にてありし也。誠にその時は、頸を切るゝとも、なしなしと毛頭も実なく思はれたり。三十日程如是して過しけるか、我思はいや我に似合はぬこと也。只一機の上にて移りたることなるべしと思ひ、こちより打捨て、本に取て帰り、彼死を胸の中へぼし籠んで、强く修し行せし也。案の如く皆虚ことにて、今に正三と云ふ糞袋は秘蔵也。又その後同しことなから、普化の意道ならば、三町計り行く程か間、慥に移れり。是れは大に徳に成る也。我も普化程には、世世生々に於て修し付けんと思ふ心强ふ起れり。普化は慥に仏境界の人と覚えたり。河陽、木塔、臨済を新婦子老婆小断児と云はれたるは道理なり。普化の眼より見ては、皆無眼子なるべし。
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『驢鞍橋』卷上夜話に曰く、若き時より用付けたる故か、我法も武勇には自由に使はるへしと思ふ也。相手有れは張合ひにて捨て安きが、何も無き坩の下へ只落ちて死ぬ事はならぬ也。是を以て思ふに只仏法の内に身を捨つる事は難き也。故に四十二章経にも命を捨て必す死する事難しと説き給ふ。実にと死する者に命を捨て死し行く者多くは有るへからす。皆命を惜み死し行くなるべし。扨々大事の事也。御坊主達常に命を捨てて居付けらるべしと也。
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『驢鞍橋』卷上一日亡者弔ひの次て、師愕然として曰く、皆人計りを弔ふ弔ふと思つて、我も頓て弔らはるへしと云ふ事を知らず。仮にも思ひよらず、只有りて俄に詰りてぎくついて死す。さても暗き物哉と也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る処へ至り玉ふに、其家の代官知行処へ往くとて、途中にて少し煩ひ死しける由申来る。師聞き愕然として曰く、扨々不便千万の事哉、我をも娑婆をも実に有ると思ひ居て俄に死す。苦み計り難し、嘆痛敷事也。爰を以て思へは少し志有りて、今か今かと片腰懸けたる様にも思ひ居る者は、亦大なる徳也。其日さまざまの事有り、晩に至りて曰く、一日徒に飮食したり、闇魔王に腹を打破られんすよと也。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、仏は諸行無常(しょぎょうむじょう)と云ふなり。世上(せじょう)に諸(もろもろ)の行はるゝ物は、皆常に無き物なり。然(しか)るを有ると見るは迷(まよい)なり、汝等(なんじら)が命、汝等が体(からだ)皆然り。長短遅速は有りといへども、皆有るにはあらず、有ると思ふは迷ひなり。本来は長短もなし、遅速もなし、遠近もなし、生死もなし、蜉蝣(かげろう)の一時を短しと見、鶴亀(つるかめ)の千年を長しと思ふが如き是皆迷なり。然といへども、此理(このことわり)は見え難し、凡人に之を見(しめ)するは遠近のみ、是は我が悟道(ごどう)の入門なり。「見渡せば遠き近きは無かりけり、己々(おのおの)が住処(すみか)にぞよる」見渡せば生死生滅無かりけり、見渡せば善きも悪しきもなかりけり、見渡せば憎いかはゆい無かりけり。この歌を感ずる時は其の道理知らるべきなり。夫(そ)れ生と云ふも死と云ふも共に無常にして、頼みにならぬ事は明白なり。氷と水とを見よ、何をか生と云ひ、何をか死と云ふ。水は寒気に感じて氷となり、氷は暖気に感じて水となる。今朝寒しといへども、一朝(いっちょう)暖気なれば速(すみやか)に消ゆ、之を如何(いかん)せん、水か氷か、氷か水か、生か死か、死か生か、何をか生と云はん、何をか死と云はん。諸行無常なる事知らるべし。然して又無常も無常にあらず、有常も有常にあらず、惜しい、欲しい、憎い、かはゆい、彼も我れも皆迷なり。此の如く迷ふが故に三界城(さんがいじょう)と云ふ堅固な物が出来て人を恨み、人を妬み、人をそねみ、人に憤り、種々の悪果(あっか)を結ぶなり。之を諸行無常と悟る時は、十方空(じっぽうくう)となつて恨むも、妬むも、悪(にく)むも、憤るも馬鹿馬鹿しくなるなり。是の所に至れば自然怨念死霊(おんねんしりょう)も退散す、之を悟りと云ふ、悟るを成仏と云ふなり、玩味(がんみ)して悟門(ごもん)に入るべきなり。
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『驢鞍橋』卷下一日曰く、我今度娑婆に出て、何の詮も無く死する也。乍去今度の功徳には、仏像を一つ見出したる計也。是れは定めて仏経に有るべし、後来尋ね見るべし。縦ひ無くとも如是勤めば錯なるべからすと也。