驢鞍橋 / 卷上
夜話の次で師問衆曰く、萬德とは何が働きて出たぞ、萬德の體を云へ。時に俗士有り曰く、出離也。師曰く、出離は出離なれとも、無相無念を體とすと云ふが能き也。□皆爰より働いて出たり。扨無相無念の時一切に相應す、譬へば拍子に合はば自ら其れに乘り、亦謠抔歌ふにも、是れは諸國一見の僧にて候と云へば、ひしと夫れに成る氣也。我も扇の手は知らねども、謠に任せ夫れに打成り、自由に舞ふべき心有り、物に應して形を現ずと云ふも、無念無心の處を云ふ也。譬へば跳りずきの者有りて、我は跳りずきなり、跳りを跳つて成佛するやうに示せと云ふに、示さずんば萬德圓滿にあらずと也。
新字:夜話の次で師問衆曰く、万徳とは何が働きて出たぞ、万徳の体を云へ。時に俗士有り曰く、出離也。師曰く、出離は出離なれとも、無相無念を体とすと云ふが能き也。□皆爰より働いて出たり。扨無相無念の時一切に相応す、譬へば拍子に合はば自ら其れに乗り、亦謡抔歌ふにも、是れは諸国一見の僧にて候と云へば、ひしと夫れに成る気也。我も扇の手は知らねども、謡に任せ夫れに打成り、自由に舞ふべき心有り、物に応して形を現ずと云ふも、無念無心の処を云ふ也。譬へば跳りずきの者有りて、我は跳りずきなり、跳りを跳つて成仏するやうに示せと云ふに、示さずんば万徳円満にあらずと也。
書き下し
夜話の次で師問衆曰く、万徳とは何が働きて出たぞ、万徳の体を云へ。時に俗士有り曰く、出離也。師曰く、出離は出離なれとも、無相無念を体とすと云ふが能き也。□皆爰より働いて出たり。扨無相無念の時一切に相応す、譬へば拍子に合はば自ら其れに乗り、亦謡抔歌ふにも、是れは諸国一見の僧にて候と云へば、ひしと夫れに成る気也。我も扇の手は知らねども、謡に任せ夫れに打成り、自由に舞ふべき心有り、物に応して形を現ずと云ふも、無念無心の処を云ふ也。譬へば跳りずきの者有りて、我は跳りずきなり、跳りを跳つて成仏するやうに示せと云ふに、示さずんば万徳円満にあらずと也。
現代語訳
夜話のついでに、師が衆に尋ねて言われた。万徳とは何が働いて出たものか。万徳の本体を言いなさい。そのとき俗士がいて言った。出離です。師は言われた。出離は出離だが、無相無念を本体とする、と言うのがよい。□みなここから働いて出たのである。さて、無相無念のときは一切に相応する。たとえば拍子に合わせればおのずからそれに乗り、また謡などを歌うにも、これは諸国一見の僧でございます、と言えば、ひしとそれになりきる気持ちである。私も扇の手は知らないけれども、謡に任せてそれになりきり、自由に舞える心がある。物に応じて形を現す、というのも、無念無心のところを言うのである。たとえば踊り好きの者がいて、私は踊りが好きだ、踊りを踊って成仏するように示せ、と言ったとき、示せないのなら万徳円満ではない、と。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷下一日語衆云はく、諸宗を聚め、万徳円満の使ひやうを云はせは、何と云ふ人もあらんずか。さあ御坊主達云つて見らるべし。時に一僧云ふ、何にも望みないが万徳也。又一僧云ふ、物毎に足をするが万徳也。師云はく、我になきてと分別じて云はんとせば云はるべからす、勇猛心なくして万徳に使はるべからす、機熟して强くなるほと次第に使はるゝ物也。因に示めして云はく、知らぬことは知らぬと云ふものなり。我は存したらば仏也。凡夫なる間、存せぬと云ふべき也。何時も我旨に乗らぬことをば乗り申さぬ。余人に御尋あれ。某は乗て後申すべしと云ふべき也。
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『驢鞍橋』卷下夜話に曰く、我始め空々坐禅を能きことに思ふて久く用ゐけるが、一日、無念無心は釈迦仏に勝るはあるべからす。然るに仏さまざま有念を使つて、一代経を説き給ふは是非を分る上にて無念の道理有るべし。あつかぼうせんとしたることにあらじと思ひ替て、果眼に用ゐて、少し元に合ふては、臆病気退く也。各も是非を分ち、万事を作す上に無念にて居る坐禅をし習ふべし。
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『驢鞍橋』卷上因に謂衆曰、われ此公事をさばくならば、仏は万徳円満なりと心を自由に使ふて、世界の用に立つか正法也。然る間双方に万徳の旨を云ひ、是れに相応せずんば両方ともに邪法也。只万徳を旨とせよと云ふべし。扨万徳は凡夫境界にて使はるゝ事に非す、仏境界に至りて使ふ事也。然るときんば仏に成るが正法なる間、双方ともに邪解を捨て、一つに成仏の道を立て、弟子共にも小僧の時より成仏の処に眼を付けて、修せよと教ふべしとさばくべき也。扨亦不立文字の禅宗に、学文を本意とも云はれまじ、亦代り法門は猶ほ以て邪解也。其故は理致を以て沙汰し究め、隙を明けて置く程に、代り法門を用ふる間は、古則は皆すたる也。
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『驢鞍橋』卷下夜の次曰く、我常に謡を坐禅の機に用ゐよと云ふこと、何れも実にもと思はるゝや。一僧曰く、用ゐることを得ず、分別には好く肯ふと云ふ。師曰く、何には因らぬ、なるほど機を强く、ぬんと用ゐて、娑婆の念を去り習ふ外なし。何としても心娑婆に負けて居るもの也。能く用心すべしと也。
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『驢鞍橋』卷下一日、去る侍来て曰く、某無理に真実を造り起さんと致しければ、心沈で機へる故に、此比は真実仏法を打捨て、機を調子に懸りて用ひ、謡抔謡ひ、舞抔舞ふて、少し飛走り仕りければ、不図機勇ましく成り、抜けぬ位を覚え候と云ふ。師見て曰く、扨ても能きこと哉、誠に見懸迄軽くなりめされたり、も早や捨身の位を守るべしと也。折節尾州大野船頭両人来り其坐にあり、師便ち彼等に向て曰く、其方達も此の機を受けすして叶はず。此の機だに得ば、何たる大難悪風に逢ふても、少しも動せずして自由自在に乗り得る物也。皆抜けて居るに仍て、加様の時あわてゝ、むだ死にして苦海に沈む者也。
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『驢鞍橋』卷下一日人問ふ、四民に書を給ふ所の浮心を如何用ゐんや。師示して曰く、虎口塲に望む心也。又果眼に成り、じりじりと懸る時の心也。此の機なくして万事に使はるべからす。仏道修行と云ふは、始めより終り迄、只此の機一つを以て生死を離るゝこと也。生死さへ離れば成仏也。然る間、此の機一つを以て成仏すべき也。別に入ることなし。見解抔と云ふこともさして用に立たぬ物也。毒薬変して薬と成ると云ふが如く、薬変して毒と成り結句怨と成ること多かるべし。見解よりも何よりも、只勇猛の心を以て練付て行くかよき也。古歌に「悟とは悟らで悟る悟なり悟る悟は夢の悟ぞ」とあり。誠に悟る悟はあぶないことぞ。我も悟らぬ悟がすきなり。法然などの念仏往生も悟らぬ悟也。