驢鞍橋 / 卷上
一日示して曰く、皆行する處に眼を著けて强く行すべし。先づ念佛を申さん人は、念佛に勢を入れて南無阿彌陀佛南無阿彌陀佛と唱ふへし。如是せば妄想いつ去ると無く自ら休むへし。譬へば事忙敷家には客來れども頓て歸るか如し。縱ひ妄想起るとも、强く勤めて取合はすんは頓て滅すへし。然る間起る處の念には不搆、行する處に眼を付けて修すべし。功重らば坐禪の機備り、二王の機抔と云ふ事も知るへしと也。
新字:一日示して曰く、皆行する処に眼を著けて强く行すべし。先づ念仏を申さん人は、念仏に勢を入れて南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と唱ふへし。如是せば妄想いつ去ると無く自ら休むへし。譬へば事忙敷家には客来れども頓て帰るか如し。縦ひ妄想起るとも、强く勤めて取合はすんは頓て滅すへし。然る間起る処の念には不搆、行する処に眼を付けて修すべし。功重らば坐禅の機備り、二王の機抔と云ふ事も知るへしと也。
書き下し
一日示して曰く、皆行する処に眼を著けて强く行すべし。先づ念仏を申さん人は、念仏に勢を入れて南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と唱ふへし。如是せば妄想いつ去ると無く自ら休むへし。譬へば事忙敷家には客来れども頓て帰るか如し。縦ひ妄想起るとも、强く勤めて取合はすんは頓て滅すへし。然る間起る処の念には不搆、行する処に眼を付けて修すべし。功重らば坐禅の機備り、二王の機抔と云ふ事も知るへしと也。
現代語訳
ある日示して言われた。みな、行じているところに目をつけて強く行じなさい。まず念仏を申す人は、念仏に勢いを入れて、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えなさい。こうすれば、妄想はいつ去るともなく自然に休むだろう。たとえば、忙しい家には客が来ても、すぐに帰るようなものだ。たとえ妄想が起こっても、強く勤めて取り合わなければ、すぐに消えるだろう。だから、起こる思いにはかまわず、行じているところに目をつけて修めなさい。功が重なれば坐禅の気迫が備わり、仁王の気迫などということも分かるだろう、と。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、仏道修行と云ふは、二王不動の大堅固の機を受けて修すること、一つ也。此機を以て身心を責滅すより外、別に仏法を知らず。若し我法に入らんと思ふ人は、機をひつ立、眼をすゑ、二王不動悪魔降伏の形像の機を受け、二王心を守て悪業煩悩を滅すべし。古来より此仏像の沙汰したる人聞ねども、如何にしても我胸に相応して用ゐて、万事に自由也。仏は勇猛精進と諸経に多く説き給ふと見えたり。此機を受けずして煩悩に勝つと不可有。第一に仏像の機を受くると云ふことを能く可知。無精にして此機移るべからす、専ら仏像に眼を著けて二六時中金剛心を守るべしと也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、平生禅定にて居るほど、坐禅を仕習ふへし。浄土宗には念仏を以て信心を申し起し、禅宗には坐禅を以て無相無念の本心を修し出だす也。然る間强く眼をつけて、自ら勇猛精進の心湧出づるほど修すべし。左無くんば彼煩悩に負けて、坐禅常住なるへからずと也。
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『驢鞍橋』卷上師亦曰、今時諸方に安く仏法を授くる人多し、我は授くへき物なし。我処に来ての得所には、何とも成らぬ物ぢやと云ふ事を知らるへし。是れを授け申すぞ。然れとも措かるゝ事に非す、一大事なれば、世々生々に於て種を失はず、終に仏果菩提を成せんと思ふ心は、我も强う持つ也。其方抔も只念仏申しに成りめさるべし。法然抔も念仏の外は菩提の為めに成る事を知らすと云ふて、一枚起請二枚起請三枚起請迄書置かれたり。我も此行を能く思ふ、先づ此行には病が著かぬ也。大鐘を胸の中にぐわんぐわんと扣き込んで、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と力を出して申すべし。悪業少しも面を出すべからず。如是平生用ひて念を滅す事也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、修行と云ふは勇猛の機一つ也。此心無くんば何たる行業も何たる善心も、皆徒事也。如来坐禅と二王坐禅と、あまり隔てあるべからず。面に現はしたると内に用ゐたるの替りなるべし。勇猛の機なくして、なにとして凡夫心にて死する時少しも使はれんや。亦なにを以て一切に勝つへきや。我は此機を頓て修し出したる間、人毎に頓て移らんずと思へとも、一人でも受けたる者なし。然れば是れ迄も修し付け難く、移し難き物と見えたり。時に去る者問、如何様にして此機を修し出すべきや。師示日、眼をすゑて死習ふ外なし。此糞袋をかたきにしてひた責めに責むべし。我が書く処の捨身の位、自己を守るの位をよく見て修せば、必す此機自然に起るへしと也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る侍に示して曰く、始めより忙敷中にて坐禅を仕習ふたるが好き也。殊に侍は鯨波の中に用ふる坐禅を仕習はで不叶、鉄鉋をばたばたと打立て、互に鑓先を揃へて、わつわつと云ふて乱れ逢ふ中にて、急度用ひて爰で使ふ事也。なにと静なる処を好む坐禅が、加様の処にて使はれんや。総して侍はなにと好き仏法なりと云ふとも、ときの声の内にて用に立たぬ事ならは、捨たがよき也。然る間常住二王心を守習ふ外なし。扨初心の者二王心の外にて、万事の上に使ふ事成るへからず。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、仏道修行は、仏像を手本にして修すべし。仏像と云ふは、初心の人如来像に眼を著けて如来坐禅は及ぶべからす、只二王不動の像等に眼を著けて二王坐禅を作すへし。先づ二王は仏法の入口、不動は仏の始めと覚えたり。然れはこそ二王は門に立ち、不動は十三仏の始めに在ます。彼の機を受けすんば煩悩に負くべし。只一頭に强き心を用ゆるの外なし。