列子 / 楊朱篇
管夷吾曰:『吾既告子養生矣、送死柰何?』晏平仲曰:『送死略矣、將何以告焉?』管夷吾曰:『吾固欲聞之。』平仲曰:『既死、豈在我哉?焚之亦可、沈之亦可、瘞之亦可、露之亦可、衣薪而棄諸溝壑亦可、袞衣繡裳而納諸石椁亦可、唯所遇焉。』管夷吾顧謂鮑叔黃子曰:『生死之道、吾二人進之矣。』」
新字:管夷吾曰:『吾既告子養生矣、送死柰何?』晏平仲曰:『送死略矣、将何以告焉?』管夷吾曰:『吾固欲聞之。』平仲曰:『既死、豈在我哉?焚之亦可、沈之亦可、瘞之亦可、露之亦可、衣薪而棄諸溝壑亦可、袞衣繡裳而納諸石椁亦可、唯所遇焉。』管夷吾顧謂鮑叔黄子曰:『生死之道、吾二人進之矣。』」
書き下し
管夷吾曰く、吾既に子に養生を告げたり。死を送るは柰何、と。晏平仲曰く、死を送るは略なり。將た何を以て焉に告げん、と。管夷吾曰く、吾固より之を聞かんと欲す、と。平仲曰く、既に死せば、豈に我に在らんや。之を焚くも亦た可なり、之を沈むるも亦た可なり、之を瘞むるも亦た可なり、之を露わすも亦た可なり、薪に衣せて諸を溝壑に棄つるも亦た可なり、袞衣繡裳して諸を石椁に納るるも亦た可なり。唯だ遇う所のままなり、と。管夷吾鮑叔・黄子を顧みて謂いて曰く、生死の道は、吾二人之を進めたり、と。
現代語訳
管夷吾は言った。「私はすでにあなたに養生を告げた。死者を送ることについてはどうか」。晏平仲は言った。「死者を送ることは簡略なものだ。何をお伝えすることがあろう」。管夷吾は言った。「ぜひそれを聞きたい」。平仲は言った。「死んでしまえば、どうして私に関わりがあろう。焼くのもよい、沈めるのもよい、埋めるのもよい、野ざらしにするのもよい、薪でくるんで溝に捨てるのもよい、礼服と刺繍の裳を着せて石棺に納めるのもよい。ただ、そのときの巡り合わせのままでよい」。管夷吾は鮑叔と黄子を振り返って言った。「生と死の道は、われわれ二人が説き進めた」。
解説
生きることは管仲が説き、死んだあとは晏子が説く。晏子の答えは、どの方法でもよい、というものでした。焼こうが沈めようが捨てようが石棺に納めようが構わない。ここで注目したいのは、豪華な葬儀を否定していないことです。石棺もよいと言っている。禁じているのではなく、こだわらないという立場です。自分の葬送に条件をつけないというのは、実務的には遺族への最大の贈り物です。そして管仲が「生と死の道はわれわれ二人が説いた」と締める。生きる側と送る側を、二人で分担して語り終えた、という自負です。
この章句が説くこと
既に死せば豈に我に在らんや之を焚くも亦た可なり唯だ遇う所のままなり生死の道は吾二人之を進めたり養生
関連する章句
-
『列子』楊朱篇晏平仲養生を管夷吾に問う。管夷吾曰く、之を肆にするのみ。壅ぐこと勿く閼ぐること勿かれ、と。晏平仲曰く、其の目は柰何、と。夷吾曰く、耳の聽かんと欲する所を恣にし、目の視んと欲する所を恣にし、鼻の向かわんと欲する所を恣にし、口の言わんと欲する所を恣にし、體の安んぜんと欲する所を恣にし、意の行わんと欲する所を恣にす。夫れ耳の聞かんと欲する所の者は音聲なり。而るに聽くを得ざる、之を聰を閼ぐと謂う。目の見んと欲する所の者は美色なり。而るに視るを得ざる、之を明を閼ぐと謂う。鼻の向かわんと欲する所の者は椒蘭なり。而るに嗅ぐを得ざる、之を顫を閼ぐと謂う。口の道わんと欲する所の者は是非なり。而るに言うを得ざる、之を智を閼ぐと謂う。體の安んぜんと欲する所の者は美厚なり。而るに從うを得ざる、之を適を閼ぐと謂う。意の爲さんと欲する所の者は放逸なり。而るに行うを得ざる、之を性を閼ぐと謂う。凡そ此の諸々の閼は、廢虐の主なり。廢虐の主を去りて、熙熙然として以て死を俟つこと、一日、一月、一年、十年、吾が所謂養なり。此の廢虐の主を拘り、錄して舍かず、戚戚然として以て久生に至ること、百年、千年、萬年、吾が所謂養に非ず。
-
『列子』仲尼篇由る所無くして常に生くる者は、道なり。生に由りて生く、故に終わると雖も亡びざるは、常なり。生に由りて亡ぶるは、不幸なり。由る所有りて常に死する者も、亦た道なり。死に由りて死す、故に未だ終わらずして自ら亡ぶる者も、亦た常なり。死に由りて生くるは、幸なり。故に用うる無くして生くる、之を道と謂う。道を用いて終わりを得る、之を常と謂う。用うる所有りて死する者も亦た之を道と謂い、道を用いて死を得る者も亦た之を常と謂う。季梁の死や、楊朱其の門を望みて歌う。隨梧の死や、楊朱其の尸を撫でて哭す。隸人の生、隸人の死には、衆人且つ歌い、衆人且つ哭す。
-
『列子』天瑞篇子貢曰く、壽は人の情なり、死は人の惡む所なり。子死を以て樂しみと爲すは、何ぞや、と。林類曰く、死と生とは、一たび往き一たび反るなり。故に是に死する者は、彼に生ぜざるを安んぞ知らん。故に吾は其の相い若かざるを知るなり。吾又た安んぞ營營として生を求むるの惑いに非ざるを知らん。亦た又た安んぞ吾が今の死の昔の生に愈らざるを知らん、と。子貢之を聞き、其の意を喻らず、還りて以て夫子に告ぐ。夫子曰く、吾は其の與に言うべきを知れり、果たして然り。然れども彼は之を得て盡くさざる者なり、と。
-
『列子』楊朱篇朝・穆曰く、吾之を知ること久し。之を擇ぶことも亦た久し。豈に若の言を待ちて而る後に之を識らんや。凡そ生は遇い難くして死は及び易し。遇い難きの生を以て、及び易きの死を俟つ。孰をか念うべけんや。而るに禮義を尊びて以て人に夸り、情性を矯めて以て名を招かんと欲するは、吾此を以て死に若かずと爲す。一生の歡を盡くし、當年の樂しみを窮めんと欲するを爲す。唯だ腹溢れて口の飲を恣にするを得ざるを患え、力憊れて情を色に肆にするを得ざるを患う。名聲の醜きを憂うるに遑あらず、性命の危うきをも憂うるに遑あらず。且つ若は國を治むるの能を以て物に夸り、說辭を以て我が心を亂し、榮祿を以て我が意を喜ばしめんと欲す。亦た鄙にして憐れむべからずや。我又た若と之を別たんと欲す。夫れ善く外を治むる者は、物未だ必ずしも治まらずして、身は交々苦しむ。善く内を治むる者は、物未だ必ずしも亂れずして、性は交々逸す。若の外を治むるを以てすれば、其の法は暫く一國に行うべきも、未だ人心に合わず。我の内を治むるを以てすれば、之を天下に推すべく、君臣の道息まん。吾常に此の術を以て之を喻さんと欲す。若は反って彼の術を以て我を教えんとするか、と。
-
『列子』楊朱篇楊朱曰く、古語に之れ有り、生きては相い憐れみ、死しては相い捐つ、と。此の語至れり。相い憐れむの道は、唯だ情のみに非ざるなり。勤むるは能く逸せしめ、飢うるは能く飽かしめ、寒きは能く溫めしめ、窮するは能く達せしむるなり。相い捐つるの道は、相い哀しまざるに非ざるなり。珠玉を含ましめず、文錦を服せしめず、犧牲を陳ねず、明器を設けざるなり。
-
呂氏春秋・節喪①審らかに生を知るは、聖人の要なり。審らかに死を知るは、聖人の極なり。生を知るとは、以て生を害せずして、生を養うの謂なり。死を知るとは、以て死を害せずして、死に安んずるの謂なり。此の二つの者は、聖人の獨り決する所なり。