列子 / 仲尼篇
無所由而常生者、道也。由生而生、故雖終而不亡、常也。由生而亡、不幸也。有所由而常死者、亦道也。由死而死、故雖未終而自亡者、亦常也。由死而生、幸也。故無用而生謂之道、用道得終謂之常、有所用而死者亦謂之道、用道而得死者亦謂之常。季梁之死、楊朱望其門而歌、隨梧之死、楊朱撫其尸而哭。隸人之生、隸人之死、衆人且歌、衆人且哭。
新字:無所由而常生者、道也。由生而生、故雖終而不亡、常也。由生而亡、不幸也。有所由而常死者、亦道也。由死而死、故雖未終而自亡者、亦常也。由死而生、幸也。故無用而生謂之道、用道得終謂之常、有所用而死者亦謂之道、用道而得死者亦謂之常。季梁之死、楊朱望其門而歌、随梧之死、楊朱撫其尸而哭。隸人之生、隸人之死、衆人且歌、衆人且哭。
書き下し
由る所無くして常に生くる者は、道なり。生に由りて生く、故に終わると雖も亡びざるは、常なり。生に由りて亡ぶるは、不幸なり。由る所有りて常に死する者も、亦た道なり。死に由りて死す、故に未だ終わらずして自ら亡ぶる者も、亦た常なり。死に由りて生くるは、幸なり。故に用うる無くして生くる、之を道と謂う。道を用いて終わりを得る、之を常と謂う。用うる所有りて死する者も亦た之を道と謂い、道を用いて死を得る者も亦た之を常と謂う。季梁の死や、楊朱其の門を望みて歌う。隨梧の死や、楊朱其の尸を撫でて哭す。隸人の生、隸人の死には、衆人且つ歌い、衆人且つ哭す。
現代語訳
よりどころなしに常に生きるもの、それが道である。生によって生きるから、終わっても滅びない。これが常である。生によって滅びるのは、不幸である。よりどころがあって常に死ぬもの、これもまた道である。死によって死ぬから、まだ終わらないうちに自ら滅びるのも、また常である。死によって生きるのは、幸運である。だから、用いるところなしに生きるのを道といい、道を用いて終わりを得るのを常という。用いるところがあって死ぬのもまた道といい、道を用いて死を得るのもまた常という。季梁が死んだとき、楊朱はその門を眺めて歌った。随梧が死んだとき、楊朱はその亡骸を撫でて泣いた。使用人が生まれ、使用人が死ぬときには、人々はやはり歌い、やはり泣く。
解説
この章句が説くこと
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『列子』楊朱篇管夷吾曰く、吾既に子に養生を告げたり。死を送るは柰何、と。晏平仲曰く、死を送るは略なり。將た何を以て焉に告げん、と。管夷吾曰く、吾固より之を聞かんと欲す、と。平仲曰く、既に死せば、豈に我に在らんや。之を焚くも亦た可なり、之を沈むるも亦た可なり、之を瘞むるも亦た可なり、之を露わすも亦た可なり、薪に衣せて諸を溝壑に棄つるも亦た可なり、袞衣繡裳して諸を石椁に納るるも亦た可なり。唯だ遇う所のままなり、と。管夷吾鮑叔・黄子を顧みて謂いて曰く、生死の道は、吾二人之を進めたり、と。
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『韓非子』解老第二十道は諸を譬ふれば水の若し。溺るる者は多く之を飲めば即ち死し、渇する者は適に之を飲めば即ち生く。之を譬ふれば剣戟の若し。愚人は以て忿りを行へば則ち禍生じ、聖人は以て暴を誅すれば則ち福成る。故に之を得て以て死し、之を得て以て生き、之を得て以て敗れ、之を得て以て成る。人は生象を見ること希なり。而して死象の骨を得て、其の図を案じて以て其の生を想ふ。故に諸人の以て意想する所の者を皆之を「象」と謂ふなり。今道は聞見を得べからずと雖も、聖人は其の見功を執りて以て其の形を処見す。故に曰く、「無状の状、無物の象」と。凡そ理は、方円・短長・麤靡・堅脆の分なり。故に理定まりて後に道を得べきなり。故に定理には存亡有り、死生有り、盛衰有り。夫れ物の一たび存し一たび亡び、乍ち死し乍ち生き、初め盛んにして後に衰ふる者は、常と謂ふべからず。唯夫れ天地の剖判と具に生じ、天地の消散に至るまで死せず衰へざる者を「常」と謂ふ。而して常なる者は易ふる攸無く、定理無し。定理無ければ、常所に在らず。是を以て道ふべからざるなり。聖人は其の玄虚を観、其の周行を用ゐて、強ひて之に字して「道」と曰ふ。然して論ずべし。故に曰く、「道の道ふべきは、常の道に非ざるなり」と。人は生に始まりて死に卒る。始まる、之を出と謂ひ、卒る、之を入と謂ふ。故に曰く、「生に出でて死に入る」と。人の身は三百六十節、四肢・九竅、其の大具なり。四肢と九竅と十有三なる者、十有三なる者の動静は尽く生に属す。属する、之を徒と謂ふなり。故に曰く、生の徒は十有三なる者なりと。死に至るや、十有三具なる者は皆還りて之を死に属す。死の徒も亦十三有り。故に曰く、「生の徒十有三、死の徒十有三」と。凡そ民の生生して、生くる者は固より動く。動き尽くれば則ち損す。而して動きて止まざるは、是れ損して止まざるなり。
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