列子 / 天瑞篇
子貢曰:「壽者人之情、死者人之惡。子以死爲樂、何也?」林類曰:「死之與生、一往一反。故死於是者、安知不生於彼?故吾知其不相若矣。吾又安知營營而求生非惑乎?亦又安知吾今之死不愈昔之生乎?」子貢聞之、不喻其意、還以告夫子。夫子曰:「吾知其可與言、果然、然彼得之而不盡者也。」
新字:子貢曰:「寿者人之情、死者人之悪。子以死為楽、何也?」林類曰:「死之与生、一往一反。故死於是者、安知不生於彼?故吾知其不相若矣。吾又安知営営而求生非惑乎?亦又安知吾今之死不愈昔之生乎?」子貢聞之、不喻其意、還以告夫子。夫子曰:「吾知其可与言、果然、然彼得之而不尽者也。」
書き下し
子貢曰く、壽は人の情なり、死は人の惡む所なり。子死を以て樂しみと爲すは、何ぞや、と。林類曰く、死と生とは、一たび往き一たび反るなり。故に是に死する者は、彼に生ぜざるを安んぞ知らん。故に吾は其の相い若かざるを知るなり。吾又た安んぞ營營として生を求むるの惑いに非ざるを知らん。亦た又た安んぞ吾が今の死の昔の生に愈らざるを知らん、と。子貢之を聞き、其の意を喻らず、還りて以て夫子に告ぐ。夫子曰く、吾は其の與に言うべきを知れり、果たして然り。然れども彼は之を得て盡くさざる者なり、と。
現代語訳
子貢が言った。「長生きは人の願いであり、死は人の嫌うものです。あなたが死を楽しみとするのは、なぜですか」。林類は言った。「死と生とは、一度行って一度還るようなものだ。だからこちらで死んだ者が、あちらで生まれていないと、どうして分かるだろう。だから私は、生と死が同じではないとは言えないと知っている。あくせく生を求めることが迷いでないと、どうして分かるだろう。今の私の死が、昔の私の生よりましでないと、どうして分かるだろう」。子貢はこれを聞いたが意味が分からず、帰って孔子に報告した。孔子は言った。「私はあの人が話のできる相手だと思ったが、やはりそうだった。ただ、あの人はそこまで到達しながら、なお極めきってはいない」。
解説
「安んぞ知らん」が四回くり返されます。断定ではなく、断定できないことの確認です。死んだ者があちらで生まれていないと、どうして分かるのか。あくせく生きるのが迷いでないと、どうして分かるのか。分からないという一点だけを丁寧に守っている。そのうえで孔子の評が置かれます。話は通じるが、そこまで来てなお極めきっていない。列子はこの老人を最終解答にはしませんでした。ここが読みどころで、この書は結論を出す本ではなく、結論を出したくなる気持ちを何度も止める本です。判断を急ぐ場に立つ人ほど、「これはまだ分からない」と言える幅を持っているかどうかが効いてきます。
この章句が説くこと
死と生とは一たび往き一たび反る安んぞ知らん営営として生を求む得て尽くさず
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