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列子 / 楊朱篇

楊朱曰:「萬物所異者生也、所同者死也。生則有賢愚、貴賤、是所異也、死則有臭腐、消滅、是所同也。雖然、賢愚、貴賤非所能也、臭腐、消滅亦非所能也。故生非所生、死非所死、賢非所賢、愚非所愚、貴非所貴、賤非所賤。然而萬物齊生齊死、齊賢齊愚、齊貴齊賤。十年亦死、百年亦死、仁聖亦死、凶愚亦死。生則堯舜、死則腐骨、生則桀紂、死則腐骨。腐骨一矣、孰知其異?且趣當生、奚遑死後?」

新字:楊朱曰:「万物所異者生也、所同者死也。生則有賢愚、貴賤、是所異也、死則有臭腐、消滅、是所同也。雖然、賢愚、貴賤非所能也、臭腐、消滅亦非所能也。故生非所生、死非所死、賢非所賢、愚非所愚、貴非所貴、賤非所賤。然而万物斉生斉死、斉賢斉愚、斉貴斉賤。十年亦死、百年亦死、仁聖亦死、凶愚亦死。生則堯舜、死則腐骨、生則桀紂、死則腐骨。腐骨一矣、孰知其異?且趣当生、奚遑死後?」

書き下し

楊朱曰く、萬物の異なる所は生なり、同じき所は死なり。生けば則ち賢愚・貴賤有り、是れ異なる所なり。死すれば則ち臭腐・消滅有り、是れ同じき所なり。然りと雖も、賢愚・貴賤は能くする所に非ざるなり。臭腐・消滅も亦た能くする所に非ざるなり。故に生は生ずる所に非ず、死は死する所に非ず、賢は賢とする所に非ず、愚は愚とする所に非ず、貴は貴ぶ所に非ず、賤は賤しむ所に非ず。然り而して萬物は齊しく生き齊しく死し、齊しく賢く齊しく愚に、齊しく貴く齊しく賤し。十年も亦た死し、百年も亦た死す。仁聖も亦た死し、凶愚も亦た死す。生けば則ち堯舜、死すれば則ち腐骨。生けば則ち桀紂、死すれば則ち腐骨。腐骨は一なり。孰か其の異なるを知らん。且く當生に趣け。奚ぞ死後に遑あらんや、と。

現代語訳

楊朱は言った。「万物が異なるのは生においてであり、同じであるのは死においてである。生きていれば賢愚と貴賤がある。これが異なるところだ。死ねば腐って消えてなくなる。これが同じところだ。とはいえ、賢愚や貴賤は自分の力でどうなるものではない。腐って消えるのも自分の力でどうなるものではない。だから生は自分が生んだのではなく、死は自分が死ぬのでもなく、賢さは自分が賢くしたのでもなく、愚かさは自分が愚かにしたのでもなく、貴さは自分が貴くしたのでもなく、賤しさは自分が賤しくしたのでもない。そうであれば万物は等しく生き等しく死に、等しく賢く等しく愚かで、等しく貴く等しく賤しい。十年でも死に、百年でも死ぬ。仁者も聖人も死に、凶悪な者も愚か者も死ぬ。生きていれば堯や舜、死ねば腐った骨。生きていれば桀や紂、死ねば腐った骨。腐った骨は一つである。誰がその違いを知ろう。しばらくは今この生に向かえ。どうして死んだあとにかまけている暇があろう」。

解説

聖王も暴君も、死ねば同じ腐った骨。だから死後のことに時間を使うな、いま生きているほうへ向かえ。これが楊朱の中心の主張です。この論法の力は、否定できないところにあります。実際、腐った骨に違いはありません。ただし、この結論を受け入れると、いま現在の楽しみ以外に判断の根拠がなくなります。長期の投資も、承継も、後の世に残す仕事も、根拠を失う。列子はこの極端な立場を、削らずにそのまま置きました。読み手が反論を組み立てるための材料として読むのが、この篇のいちばん実りある読み方です。

この章句が説くこと

生けば則ち堯舜死すれば則ち腐骨腐骨は一なり孰か其の異なるを知らん且く当生に趣け

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