列子 / 楊朱篇
太古之人知生之暫來、知死之暫往、故從心而動、不違自然所好、當身之娛非所去也、故不爲名所勸。從性而游、不逆萬物所好、死後之名非所取也、故不爲刑所及。名譽先後、年命多少、非所量也。」
新字:太古之人知生之暫来、知死之暫往、故従心而動、不違自然所好、当身之娛非所去也、故不為名所勧。従性而游、不逆万物所好、死後之名非所取也、故不為刑所及。名誉先後、年命多少、非所量也。」
書き下し
太古の人は生の暫く來たるを知り、死の暫く往くを知る。故に心に從いて動き、自然の好む所に違わず。當身の娛しみは去る所に非ざるなり。故に名の勸むる所と爲らず。性に從いて游び、萬物の好む所に逆らわず。死後の名は取る所に非ざるなり。故に刑の及ぶ所と爲らず。名譽の先後、年命の多少は、量る所に非ざるなり、と。
現代語訳
太古の人は、生がしばらく来ているだけだと知り、死がしばらく往くだけだと知っていた。だから心のままに動き、おのずと好むところに逆らわなかった。この身の楽しみは捨てるものではない。だから名声に励まされることがなかった。生まれつきのままに遊び、万物の好むところに逆らわなかった。死後の名は取るものではない。だから刑罰が及ぶことがなかった。名誉の先後も、寿命の長短も、はかるべきものではない。
解説
前の段で人生の残高を突き詰めた楊朱が、代案として示すのがこれです。生も死も、しばらくのあいだの出入りにすぎない。だから名声に励まされず、死後の名を取りにいかない。すると刑罰も及ばなくなる。ここが実務的です。名を追わなければ、名を守るための無理をしなくなり、無理をしないから罰も受けない。因果がつながっています。企業の不祥事の多くは、評判を守ろうとして生じます。守るべき評判を持たなければ、隠す必要もない。極端な立場ですが、内側の論理は一貫しています。
この章句が説くこと
生の暫く来たるを知り死の暫く往くを知る名の勧むる所と為らず名誉の先後年命の多少は量る所に非ず
関連する章句
-
『列子』楊朱篇彼の二凶や、生きて欲に從うの歡び有り、死して愚暴の名を被る。實なる者は、固より名の與うる所に非ざるなり。之を毀ると雖も知らず、之を稱うと雖も知らず。此れ株塊と奚を以て異ならんや。彼の四聖は美の歸する所と雖も、苦しみて以て終わりに至り、同じく死に歸せり。彼の二凶は惡の歸する所と雖も、樂しみて以て終わりに至り、亦た同じく死に歸せり、と。
-
『列子』楊朱篇楊朱曰く、太古の事は滅せり。孰か之を誌さんや。三皇の事は存するが若く亡きが若し。五帝の事は覺むるが若く夢むるが若し。三王の事は或いは隱れ或いは顯る。億にして一を識らず。當身の事は或いは聞き或いは見る。萬にして一を識らず。目前の事は或いは存し或いは廢る。千にして一を識らず。太古より今日に至るまで、年數は固より勝げて紀すべからず。但だ伏羲より已來三十餘萬歲、賢愚・好醜・成敗・是非、消滅せざる無し。但だ遲速の間のみ。一時の毀譽を矜り、以て其の神形を焦苦し、死後數百年中の餘名を要むるは、豈に枯骨を潤すに足らんや。何ぞ生を樂しまんや、と。
-
『列子』楊朱篇楊朱曰く、萬物の異なる所は生なり、同じき所は死なり。生けば則ち賢愚・貴賤有り、是れ異なる所なり。死すれば則ち臭腐・消滅有り、是れ同じき所なり。然りと雖も、賢愚・貴賤は能くする所に非ざるなり。臭腐・消滅も亦た能くする所に非ざるなり。故に生は生ずる所に非ず、死は死する所に非ず、賢は賢とする所に非ず、愚は愚とする所に非ず、貴は貴ぶ所に非ず、賤は賤しむ所に非ず。然り而して萬物は齊しく生き齊しく死し、齊しく賢く齊しく愚に、齊しく貴く齊しく賤し。十年も亦た死し、百年も亦た死す。仁聖も亦た死し、凶愚も亦た死す。生けば則ち堯舜、死すれば則ち腐骨。生けば則ち桀紂、死すれば則ち腐骨。腐骨は一なり。孰か其の異なるを知らん。且く當生に趣け。奚ぞ死後に遑あらんや、と。
-
『列子』楊朱篇孟孫陽楊朱に問いて曰く、此に人有り、生を貴び身を愛して、以て死せざるを蘄う。可ならんか、と。曰く、理として死せざるは無し、と。以て久しく生きんことを蘄うは、可ならんか、と。曰く、理として久しく生くるは無し。生は之を貴びて能く存する所に非ず、身は之を愛して能く厚くする所に非ず。且つ久しく生きて奚をか爲さん。五情の好惡は、古も猶お今のごとし。四體の安危は、古も猶お今のごとし。世事の苦樂は、古も猶お今のごとし。變易治亂は、古も猶お今のごとし。既に之を聞けり、既に之を見たり、既に之を更たり。百年すら猶お其の多きを厭う。況んや久生の苦しみをや、と。
-
『列子』楊朱篇孟孫陽曰く、若し然らば、速やかに亡ぶるは久しく生くるに愈れり。則ち鋒刃を踐み、湯火に入らば、志す所を得ん、と。楊子曰く、然らず。既に生けば、則ち廢して之に任せ、其の欲する所を究めて、以て死を俟つ。將に死せんとせば、則ち廢して之に任せ、其の之く所を究めて、以て盡くるに放る。廢せざる無く、任せざる無し。何ぞ遽かに其の閒に遲速せんや、と。
-
『列子』楊朱篇楊朱曰く、百年は壽の大齊なり。百年を得る者は千に一も無し。設い一有る者も、孩抱より昏老に逮ぶまで、幾ど其の半ばに居る。夜眠の弭む所、晝覺の遺る所、又た幾ど其の半ばに居る。痛疾哀苦、亡失憂懼、又た幾ど其の半ばに居る。十數年の中を量るに、逌然として自得し介焉の慮無き者は、亦た一時の中も亡きのみ。則ち人の生や奚をか爲さんや。奚をか樂しまんや。美厚を爲すのみ、聲色を爲すのみ。而も美厚は復た常には厭足すべからず、聲色は常には翫聞すべからず。乃ち復た刑賞の禁勸する所、名法の進退する所と爲り、遑遑爾として一時の虛譽を競い、死後の餘榮を規る。偊偊爾として耳目の觀聽に順い、身意の是非を惜しみ、徒らに當年の至樂を失い、一時に自ら肆にする能わず。重囚纍梏、何を以て异ならんや。