列子 / 湯問篇
殷湯問於夏革曰:「古初有物乎?」夏革曰:「古初無物、今惡得物?後之人將謂今之無物、可乎?」殷湯曰:「然則物無先後乎?」夏革曰:「物之終始、初無極已。始或爲終、終或爲始、惡知其紀?然自物之外、自事之先、朕所不知也。」
新字:殷湯問於夏革曰:「古初有物乎?」夏革曰:「古初無物、今悪得物?後之人将謂今之無物、可乎?」殷湯曰:「然則物無先後乎?」夏革曰:「物之終始、初無極已。始或為終、終或為始、悪知其紀?然自物之外、自事之先、朕所不知也。」
書き下し
殷の湯夏革に問いて曰く、古初に物有りしか、と。夏革曰く、古初に物無くんば、今惡んぞ物を得んや。後の人將に今の物無しと謂わんとするも、可ならんか、と。殷の湯曰く、然らば則ち物に先後無きか、と。夏革曰く、物の終始は、初めより極まり無きのみ。始めは或いは終わりと爲り、終わりは或いは始めと爲る。惡んぞ其の紀を知らんや。然れども物の外より、事の先よりは、朕の知らざる所なり、と。
現代語訳
殷の湯王が夏革に尋ねた。「太古のはじめに、物はあったのか」。夏革は言った。「太古のはじめに物がなかったのなら、いまどうして物があるでしょう。後の世の人が『いまは物がなかった』と言ったとして、それが通りましょうか」。湯王は言った。「では、物に先も後もないのか」。夏革は言った。「物の終わりと始まりには、もともと限りがありません。始まりが終わりになることもあり、終わりが始まりになることもある。どうしてその筋目が分かりましょう。ただし、物の外のこと、事の前のことは、私には分かりません」。
解説
湯問篇はこの問答から始まります。夏革の答え方に型があります。まず反論に使えるところは論理で押し返す。物がなかったならいま物があるはずがない、と。次に、始まりが終わりになり終わりが始まりになると言って、区別そのものを外す。そして最後に「ただし、それより先は私には分かりません」と線を引く。答えられるところまで答えて、そこから先を明示して止める。この三段は、専門家が知らないことを扱う作法として理想的です。全部答えるか、何も答えないかの二択になりがちな場面で、どこまで答えられるかを自分で線引きできる人は多くありません。
この章句が説くこと
古初に物有りしか始めは或いは終わりと為り終わりは或いは始めと為る朕の知らざる所なり
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