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列子 / 仲尼篇

樂正子輿曰:「子、龍之徒、焉得不飾其闕?吾又言其尤者。龍誑魏王曰:『有意不心。有指不至。有物不盡。有影不移。髮引千鈞。白馬非馬。孤犢未嘗有母。』其負類反倫、不可勝言也。」公子牟曰:「子不諭至言而以爲尤也、尤其在子矣。夫無意則心同、無指則皆至、盡物者常有、影不移者、說在改也、髮引千鈞、勢至等也、白馬非馬、形名離也、孤犢未嘗有母、非孤犢也。」樂正子輿曰:「子以公孫龍之鳴皆條也。設令發於餘竅、子亦將承之。」公子牟默然良久、告退、曰:「請待餘日、更謁子論。」

新字:楽正子輿曰:「子、竜之徒、焉得不飾其闕?吾又言其尤者。竜誑魏王曰:『有意不心。有指不至。有物不尽。有影不移。髪引千鈞。白馬非馬。孤犢未嘗有母。』其負類反倫、不可勝言也。」公子牟曰:「子不諭至言而以為尤也、尤其在子矣。夫無意則心同、無指則皆至、尽物者常有、影不移者、説在改也、髪引千鈞、勢至等也、白馬非馬、形名離也、孤犢未嘗有母、非孤犢也。」楽正子輿曰:「子以公孫竜之鳴皆条也。設令発於余竅、子亦将承之。」公子牟黙然良久、告退、曰:「請待余日、更謁子論。」

書き下し

樂正子輿曰く、子は龍の徒なり。焉んぞ其の闕を飾らざるを得んや。吾又た其の尤なる者を言わん。龍魏王を誑きて曰く、意有るも心あらず、指有るも至らず、物有るも盡きず、影有るも移らず、髮は千鈞を引き、白馬は馬に非ず、孤犢は未だ嘗て母有らず、と。其の類に負き倫に反すること、勝げて言うべからざるなり、と。公子牟曰く、子は至言を諭らずして以て尤と爲す。尤は其れ子に在り。夫れ意無ければ則ち心同じ、指無ければ則ち皆な至る、物を盡くす者は常に有り、影の移らざるは、說は改まるに在り、髮の千鈞を引くは、勢いの至って等しければなり、白馬の馬に非ざるは、形と名と離るればなり、孤犢の未だ嘗て母有らざるは、孤犢に非ざればなり、と。樂正子輿曰く、子は公孫龍の鳴を以て皆な條なりと爲す。設い餘竅より發せしむとも、子も亦た將に之を承けんとす、と。公子牟默然たること良や久しく、退くを告げて曰く、請う餘日を待ちて、更めて子に謁して論ぜん、と。

現代語訳

楽正子輿は言った。「あなたは龍の弟子だ。どうしてその欠点を取り繕わずにいられよう。もっとひどいものを挙げよう。龍は魏王をたぶらかしてこう言った。意はあっても心はない。指し示すものはあっても届かない。物はあっても尽きない。影はあっても移らない。髪の毛が千鈞を引く。白馬は馬ではない。母を亡くした子牛には、はじめから母がいなかった、と。その類に背き道理に反することは、数え上げきれない」。公子牟は言った。「あなたは至言を理解できずに、それを過ちとしている。過ちはあなたのほうにある。そもそも意がなければ心は同じであり、指し示すものがなければすべてが届いており、物を尽くすものは常にあり、影が移らないというのは、影が入れ替わっているという説であり、髪の毛が千鈞を引くというのは、力が完全に釣り合っているからであり、白馬が馬でないというのは、形と名が離れているからであり、母を亡くした子牛にはじめから母がいなかったというのは、母がいたときにはまだ孤ではなかったからだ」。楽正子輿は言った。「あなたは公孫龍の鳴き声をすべて筋が通っていると思っている。たとえそれが尻の穴から出たとしても、あなたはそれを受け取るだろう」。公子牟は長いあいだ黙り込み、退出を告げて言った。「日をあらためて、また伺って論じたい」。

解説

名家の有名な命題が七つ並びます。白馬は馬に非ず、影は移らず、髪の毛が千鈞を引く。公子牟はそれぞれに説明をつけます。実際、彼の説明は的を射ていて、「白馬は馬に非ず」は形と名が別だという話であり、「孤犢に母無し」は言葉の定義の話です。ところが子輿は理屈で返さず、下品な一言で片づけました。あなたは彼の言うことなら何でも受け取るだろう、と。公子牟は黙り込み、日を改めましょうと言って去る。列子はここで議論を終わらせます。論理では公子牟が上でしたが、場を制したのは子輿でした。会議でも同じことが起きます。正しさと、その場の決着は、別々に決まります。

この章句が説くこと

白馬は馬に非ず形と名と離る影有るも移らず髪は千鈞を引く尤は其れ子に在り

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