列子 / 仲尼篇
文摯乃命龍叔背明而立、文摯自後向明而望之。既而曰:「嘻!吾見子之心矣、方寸之地虛矣。幾聖人也!子心六孔流通、一孔不達。今以聖智爲疾者、或由此乎!非吾淺術所能已也。」
新字:文摯乃命竜叔背明而立、文摯自後向明而望之。既而曰:「嘻!吾見子之心矣、方寸之地虚矣。幾聖人也!子心六孔流通、一孔不達。今以聖智為疾者、或由此乎!非吾浅術所能已也。」
書き下し
文摯乃ち龍叔に命じて明に背きて立たしめ、文摯自ら後より明に向かいて之を望む。既にして曰く、嘻、吾子の心を見たり。方寸の地虛なり。聖人に幾きかな。子の心の六孔は流通し、一孔は達せず。今聖智を以て疾と爲すは、或いは此に由るか。吾が淺術の能く已やす所に非ざるなり、と。
現代語訳
文摯は龍叔に、明かりに背を向けて立つよう命じ、自分は後ろから明かりのほうを向いて彼を透かし見た。しばらくして言った。「ああ、私はあなたの心を見た。一寸四方の心の地は虚である。聖人に近い。あなたの心の六つの穴は通じているが、一つの穴だけが通じていない。いま聖なる知恵を病だとお思いになるのは、おそらくそこから来ているのだろう。私の浅い術で治せるものではありません」。
解説
診断は「聖人に近い」でした。心の七つの穴のうち六つは通じていて、一つだけ通じていない。その一つが、聖なる知恵を病だと感じさせている、と。そして治せません、と告げて終わります。ここが読みどころです。文摯は治療を断りましたが、否定はしていない。あなたはほとんど到達しているが、一つだけ残っている、と伝えただけです。しかもその一つが何かは言いません。実務でも、ある人の抱える違和感を、こちらが解消できない場面があります。そのとき、無理に処方を出すより、いまどこにいるかを言葉にして返すほうが役に立つことがある。治せないと認めることが、一つの仕事になっています。
この章句が説くこと
方寸の地虚なり聖人に幾し心の六孔は流通し一孔は達せず吾が浅術の能く已やす所に非ず
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