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列子 / 仲尼篇

陳大夫聘魯、私見叔孫氏。叔孫氏曰:「吾國有聖人。」曰:「非孔丘邪?」曰:「是也。」「何以知其聖乎?」叔孫氏曰:「吾常聞之顏回曰:『孔丘能廢心而用形。』」陳大夫曰:「吾國亦有聖人、子弗知乎?」曰:「聖人孰謂?」曰:「老聃之弟子有亢倉子者、得聃之道、能以耳視而目聽。」魯侯聞之大驚、使上卿厚禮而致之。亢倉子應聘而至、魯侯卑辭請問之。亢倉子曰:「傳之者妄。我能視聽不用耳目、不能易耳目之用。」

新字:陳大夫聘魯、私見叔孫氏。叔孫氏曰:「吾国有聖人。」曰:「非孔丘邪?」曰:「是也。」「何以知其聖乎?」叔孫氏曰:「吾常聞之顏回曰:『孔丘能廃心而用形。』」陳大夫曰:「吾国亦有聖人、子弗知乎?」曰:「聖人孰謂?」曰:「老聃之弟子有亢倉子者、得聃之道、能以耳視而目聴。」魯侯聞之大驚、使上卿厚礼而致之。亢倉子応聘而至、魯侯卑辞請問之。亢倉子曰:「伝之者妄。我能視聴不用耳目、不能易耳目之用。」

書き下し

陳の大夫魯に聘し、私かに叔孫氏に見ゆ。叔孫氏曰く、吾が國に聖人有り、と。曰く、孔丘に非ずや、と。曰く、是なり、と。何を以て其の聖なるを知るか、と。叔孫氏曰く、吾常に之を顏回に聞けり、孔丘は能く心を廢して形を用う、と。陳の大夫曰く、吾が國にも亦た聖人有り。子知らざるか、と。曰く、聖人とは孰をか謂う、と。曰く、老聃の弟子に亢倉子なる者有り。聃の道を得て、能く耳を以て視て目を以て聽く、と。魯侯之を聞きて大いに驚き、上卿をして厚く禮して之を致さしむ。亢倉子聘に應じて至る。魯侯辭を卑くして之に請い問う。亢倉子曰く、之を傳うる者は妄なり。我は能く視聽するに耳目を用いず。耳目の用を易うる能わず、と。

現代語訳

陳の大夫が魯に使いし、ひそかに叔孫氏に会った。叔孫氏は言った。「わが国には聖人がいる」。「孔丘のことではないか」。「そのとおりだ」。「どうしてその人が聖人だと分かるのか」。叔孫氏は言った。「私はいつも顔回からこう聞いている。孔丘は心を働かせずに体を用いることができる、と」。陳の大夫は言った。「わが国にも聖人がいる。ご存じないか」。「聖人とは誰のことか」。「老聃の弟子に亢倉子という者がいる。老聃の道を得て、耳で見て目で聞くことができる」。魯の君主はこれを聞いて大いに驚き、上卿に手厚い礼をもって招かせた。亢倉子は招きに応じてやって来た。魯侯は言葉を低くして尋ねた。亢倉子は言った。「伝えた者がでたらめです。私は見たり聞いたりするのに耳や目を用いない、というだけです。耳と目の役割を入れ替えられるわけではありません」。

解説

「耳で見て目で聞く」という評判が、本人によって即座に訂正されます。正しくは「見聞きするのに耳目を用いない」。似ているようで、まったく違う話です。伝言が一段階を経ただけで、地味だが本質的な話が、派手だが意味不明な話に変わっている。しかも訂正の場は、君主が上卿を送って招いた大がかりな場面でした。噂が大きくなるほど、確かめる手続きは重くなります。組織でも、誰かの評判が段階を経て届いたとき、私たちはたいてい本人に確かめないまま扱います。この段が優れているのは、招いた側が本人に直接尋ね、本人が誇張を訂正したことです。どちらの側も、珍しいほど誠実です。

この章句が説くこと

能く心を廃して形を用う耳を以て視て目を以て聴く之を伝うる者は妄なり

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