列子 / 黄帝篇
今東方介氏之國、其國人數數解六畜之語者、蓋偏知之所得。太古神聖之人、備知萬物情態、悉解異類音聲。會而聚之、訓而受之、同於人民。故先民會鬼神魑魅、次達八方人民、末聚禽獸蟲蛾。言血氣之類心智不殊遠也。神聖知其如此、故其所教訓者無所遺逸焉。
新字:今東方介氏之国、其国人数数解六畜之語者、蓋偏知之所得。太古神聖之人、備知万物情態、悉解異類音声。会而聚之、訓而受之、同於人民。故先民会鬼神魑魅、次達八方人民、末聚禽獣虫蛾。言血気之類心智不殊遠也。神聖知其如此、故其所教訓者無所遺逸焉。
書き下し
今東方介氏の國、其の國人數數六畜の語を解する者あり。蓋し偏知の得る所なり。太古神聖の人は、備さに萬物の情態を知り、悉く異類の音聲を解す。會して之を聚め、訓えて之を受け、人民に同じくす。故に先民は鬼神魑魅を會し、次いで八方の人民に達し、末に禽獸蟲蛾を聚む。血氣の類は心智殊だしくは遠からざるを言うなり。神聖は其の此くの如きを知る。故に其の教訓する所の者、遺逸する所無し。
現代語訳
いま東方の介氏の国では、その国の人でしばしば六種の家畜の言葉を解する者がいる。おそらく偏った知によって得たものだろう。太古の神聖な人は、万物のありようをことごとく知り、異なる種の声をすべて解した。彼らを集めて寄せ、教え導いて受け入れさせ、人民と同じように扱った。だから昔の人は、まず鬼神や魑魅と交わり、次に八方の人民に通じ、最後に禽獣や虫を集めた。血気あるものの心と知は、そう遠く隔たってはいないということである。神聖な人はそのことを知っていた。だからその教え導く相手に、取りこぼしがなかった。
解説
結びが「其の教訓する所の者、遺逸する所無し」――教える相手に取りこぼしがない、という一点に落ちます。太古の聖人が万物の声を解したという話は、能力自慢ではありません。解せたから、誰一人こぼさずに教えられた、という順序です。そして根拠は「血気あるものの心と知は、そう遠く隔たっていない」。相手が違うのではなく、隔たりを大きく見積もりすぎているだけだという立場です。現場で言えば、話が通じない人を教育の対象から外した瞬間に、こぼれが生まれる。外すのは効率的ですが、外した相手が本当に遠いのかを確かめた人は多くありません。ここは、この篇全体の締めとして置かれています。
この章句が説くこと
血気の類は心智殊だしくは遠からず万物の情態を知り異類の音声を解す遺逸する所無し
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