列子 / 黄帝篇
海上之人有好漚鳥者、每旦之海上、從漚鳥游、漚鳥之至者百住而不止。其父曰:「吾聞漚鳥皆從汝游、汝取來、吾玩之。」明日之海上、漚鳥舞而不下也。故曰:至言去言、至爲無爲。齊智之所知、則淺矣。
新字:海上之人有好漚鳥者、毎旦之海上、従漚鳥游、漚鳥之至者百住而不止。其父曰:「吾聞漚鳥皆従汝游、汝取来、吾玩之。」明日之海上、漚鳥舞而不下也。故曰:至言去言、至為無為。斉智之所知、則浅矣。
書き下し
海上の人に漚鳥を好む者有り。每旦海上に之き、漚鳥に從いて游ぶ。漚鳥の至る者は百にして住まりて止まず。其の父曰く、吾聞く、漚鳥皆な汝に從いて游ぶと。汝取り來たれ、吾之を玩ばん、と。明日海上に之くに、漚鳥舞いて下らざるなり。故に曰く、至言は言を去り、至爲は爲すこと無し、と。智を齊しくするの知る所は、則ち淺きなり。
現代語訳
海辺に鴎を好む人がいた。毎朝海辺へ行って、鴎とたわむれて遊んだ。集まってくる鴎は百羽どころではなく、いつまでも去らなかった。その父が言った。「聞けば、鴎はみなお前になついて遊ぶそうだな。捕まえてこい、私も可愛がってみたい」。翌日海辺へ行くと、鴎は舞うばかりで下りてこなかった。だから言うのだ、至高の言葉は言葉を去り、至高の行いは行いがない、と。人並みの知恵で分かることなど、浅いものである。
解説
何も変えていません。同じ人が、同じ場所へ、同じ時刻に行った。違うのは、捕まえようという心を一つ持っていたことだけです。それを鴎は見抜いた。この話が怖いのは、当人が態度を変えたつもりがまったくない点です。人の心の向きは、本人が思っている以上に外へ漏れています。営業でも採用でも、相手を数字として見た瞬間に、言葉づかいを変えなくても伝わる。そして父の頼みは、悪意ですらありませんでした。可愛がりたいという善意です。善意であっても、相手を対象として扱えば同じことが起きる。「至言は言を去り、至為は為すこと無し」――何かをしようという意図そのものが、関係を壊す側に働くことがあります。
この章句が説くこと
漚鳥舞いて下らず至言は言を去り至為は為すこと無し智を斉しくするの知る所は浅し
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