呂氏春秋 / 精諭①
──聖人相諭不待言,有先言言者也。海上之人有好蜻者,每居海上,從蜻游,蜻之至者,百數而不止,前後左右盡蜻也,終日玩之而不去。其父告之曰:「聞蜻皆從女居,取而來,吾將玩之。」明日之海上,而蜻無至者矣。
新字:──聖人相諭不待言,有先言言者也。海上之人有好蜻者,毎居海上,従蜻游,蜻之至者,百数而不止,前後左右尽蜻也,終日玩之而不去。其父告之曰:「聞蜻皆従女居,取而来,吾将玩之。」明日之海上,而蜻無至者矣。
書き下し
聖人は相諭るに言を待たず。言に先だちて言う者有ればなり。海の上の人に蜻を好む者有り。毎に海の上に居り、蜻に從いて游ぶ。蜻の至る者、百數にして止まず。前後左右盡く蜻なり。終日之を玩べども去らず。其の父之に告げて曰く、「聞く蜻皆女に從いて居ると。取りて來たれ。吾將に之を玩ばんとす。」明日、海の上に之けども、蜻の至る者無し。
現代語訳
聖人が互いに理解し合うのに言葉を必要としない。言葉に先立って語るものがあるからである。海辺の人にトンボを好む者がいた。いつも海辺にいてトンボと戯れ、集まってくるトンボは百を数えても止まらず、前後左右すべてトンボであった。一日中遊んでも去らなかった。その父が言った、「トンボはみなお前になついていると聞いた。捕まえてきてくれ。私も遊びたい。」翌日海辺に行くと、集まってくるトンボは一羽もいなかった。
解説
この段は精諭篇の総論で、トンボと戯れる者の寓話です。無心に遊んでいるうちはトンボが群れ集まったのに、捕らえようという下心を抱いた翌日には一羽も寄りつきませんでした。要点は、言葉に出さなくても内心の意図は相手に伝わってしまうということです。人も動物も、うわべの態度ではなく心の本当のあり方を感じ取るという精諭篇の考えが背景にあります。現代でも、打算や下心を隠して人に接しても、不思議と相手に察知され距離を置かれることがあります。逆に、飾らぬ誠実さは言葉以上に信頼を生みます。心のあり方そのものが最も雄弁に伝わると教える印象的な一段です。
この章句が説くこと
精諭蜻無心下心言外の意誠
関連する章句
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言志四録・言志耋録 第三百三十四条 人道は誠敬のみ人道は只だ是れ誠敬のみ。生きては既に生を全うし、死しては乃ち死に安んず。敬よりして誠なり。生死は天より来る、順ひて之を受く。誠よりして敬なり。夫の短長を較べ、苦楽を説くに至りては、則ち竟に是れ男女親族の私情にして、死者に於ては此の遺念無きのみ。
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『大和俗訓』巻之七・躬行下一程子曰、財ををしみては、よく善を行ふことなり難し。誠なくしては、善をなす事はなり難しと。此言むべなるかな。財を用ひずして、ただ言を以て人をかたらふとも、人を救ひがたし。人もまた悦ばずして其人のために忠を尽さざれば功をなすこと成りがたし。項羽を婦人の仁といひしも是なり。又凡の事、いつはりを以て善を行へば、中心より出でざる故、善を行ふに専一ならずして、其事成就せず。誠の善とすべからず。人も亦信とせず。感通の理なし。
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『弁名』誠又た仁斎先生の無妄と無偽とを以て其の優劣を争ふが如きも、亦た朱子の意は虚妄無きを謂ふのみなるを知らず。其の所謂春当に温かなるべくして反つて寒く、夏当に熱かるべくして反つて冷え、夏に霜ふり、冬に雷なり、桃李華さき、五星逆行し、日月度を失ふの類、豈に虚妄と為すべけんや。東坡の所謂「人は至らざる所無し、惟だ天のみ偽を容れず」とは、其の人の偽を容れざるを謂ふのみ。天の偽らざるを謂ふに非ざるなり。嗚呼、天豈に偽不偽を以て言ふべけんや。是れ其の今言に於いて猶ほ未だ之を知らず。況んや古言に於いてをや。
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『洗心洞箚記』卷下・第九十一條是の故に賢愚と無く、学に志せば、則ち断じて是を以て準的と為す。則ち康荘大道の上を行くの人にして、邪径曲路を踏む者に非ざるなり。而して其の成不成も亦命なるのみ。君子は命を云はず、只義を以て主と為す。則ち誠を以て準的と為す、義焉より大なるは莫し。陽明先生曰く、大学の要は、誠意のみと。此を以てなり。而して程朱居敬窮理の工も、要するに亦誠に帰するのみ。豈に他有らんや。而して其の学者静坐し、其の子陽辟して書を読み、其の勤惰を知らず、或いは冊子の上に放著して、心を治むるの工を知らず。是れ皆其の末学の弊なり。程朱の学にして安んぞ之有らんや。故に湯潜菴先生曰く、宋儒は主敬を言ふ。陽明は学者の一の敬の字を執著呆守するに過ぎて、反つて是れ不敬なるを恐る。故に人に教へて只良知を提醒せしむ。吾謂へらく、良知を昏まさざる者は、敬なり。敬の執著せざる所の者は、良知なりと。要するに誠に帰するを以て準的と為して問学すれば、則ち主敬と曰ふも亦可なり、致良知と曰ふも亦可なり。否ずんば則ち博学浩聞も、即ち門外の乞児なり。反観内省も、即ち葱嶺の髡徒なり。豈に道を学ぶと曰はんや。
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