列子 / 天瑞篇
子列子聞而笑曰:「言天地壞者亦謬、言天地不壞者亦謬。壞與不壞、吾所不能知也。雖然、彼一也、此一也。故生不知死、死不知生、來不知去、去不知來。壞與不壞、吾何容心哉?」
新字:子列子聞而笑曰:「言天地壊者亦謬、言天地不壊者亦謬。壊与不壊、吾所不能知也。雖然、彼一也、此一也。故生不知死、死不知生、来不知去、去不知来。壊与不壊、吾何容心哉?」
書き下し
子列子聞きて笑いて曰く、天地壞ると言う者も亦た謬れり、天地壞れずと言う者も亦た謬れり。壞ると壞れざるとは、吾の知る能わざる所なり。然りと雖も、彼も一なり、此も一なり。故に生は死を知らず、死は生を知らず、來は去るを知らず、去は來るを知らず。壞ると壞れざると、吾何ぞ心を容れんや、と。
現代語訳
列子はこれを聞いて笑って言った。「天地が壊れると言う者も間違っている。天地が壊れないと言う者も間違っている。壊れるか壊れないかは、私には知りようがない。とはいえ、あちらも一つ、こちらも一つである。だから生は死を知らず、死は生を知らない。来るものは去ることを知らず、去るものは来ることを知らない。壊れるか壊れないかに、私がどうして心を割く必要があろうか」。
解説
杞憂の話は三段構えでした。心配する人、安心させる人、そして「壊れる」と言う人。最後に列子が出てきて、三人ともまとめて否定します。ただし否定の仕方が違う。間違っているのは結論の中身ではなく、知り得ないことに結論を出したという一点です。そのうえで「私がどうして心を割く必要があろうか」と締める。心配しないのではなく、心を配る先をそこに置かない、と言っています。これは経営判断の実務そのものです。制御できず、予測もできず、起きたときに手も打てないことに、時間と気力をいくら使っても意思決定は一ミリも改善しません。心配を消すのではなく、心配の置き場所を選ぶ。杞憂の話が笑い話で終わらないのは、この三段目があるからです。
この章句が説くこと
壊ると壊れざるとは吾の知る能わざる所吾何ぞ心を容れんや生は死を知らず
関連する章句
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