荘子 / 寓言
生有為,死也。勸公:以其死也,有自也;而生陽也,無自也。而果然乎?惡乎其所適?惡乎其所不適?天有曆數,地有人據,吾惡乎求之?莫知其所終,若之何其無命也?莫知其所始,若之何其有命也?有以相應也,若之何其無鬼邪?無以相應也,若之何其有鬼邪?」
新字:生有為,死也。勧公:以其死也,有自也;而生陽也,無自也。而果然乎?悪乎其所適?悪乎其所不適?天有暦数,地有人拠,吾悪乎求之?莫知其所終,若之何其無命也?莫知其所始,若之何其有命也?有以相応也,若之何其無鬼邪?無以相応也,若之何其有鬼邪?」
書き下し
生きて為す有るは、死なり。公に勧む。其の死するを以てや、自(よ)る有り。而して生の陽なるや、自る無し。而(すなわ)ち果たして然るか。悪(いず)くにか其の適する所、悪くにか其の適せざる所。天に暦数有り、地に人拠有り。吾は悪くにか之を求めん。其の終わる所を知る莫し。之を若何(いかん)ぞ其れ命無からんや。其の始まる所を知る莫し。之を若何ぞ其れ命有らんや。以て相応ずる有り。之を若何ぞ其れ鬼無からんや。以て相応ずる無し。之を若何ぞ其れ鬼有らんや」と。
現代語訳
生きていて何かをなそうとするのは、死に向かうことだ。あなたに勧めよう。人が死ぬことには、拠りどころがある。しかし生が陽の気として現れることには、拠りどころがない。それは本当にそうなのか。どこがふさわしく、どこがふさわしくないのか。天には暦の数があり、地には人の拠りどころがある。私はどこにそれを求めればよいのか。その終わりを知る者はいない。それでどうして、運命がないと言えようか。その始まりを知る者もいない。それでどうして、運命があると言えようか。互いに応じ合うことがある。それでどうして、鬼神がいないと言えようか。互いに応じ合わないこともある。それでどうして、鬼神がいると言えようか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『列子』力命篇生は之を貴びて能く存する所に非ず。身は之を愛して能く厚くする所に非ず。生も亦た之を賤しみて能く夭くする所に非ず。身も亦た之を輕んじて能く薄くする所に非ず。故に之を貴びて或いは生きず、之を賤しみて或いは死せず、之を愛して或いは厚からず、之を輕んじて或いは薄からず。此れ反に似たり、反に非ざるなり。此れ自ら生き自ら死し、自ら厚く自ら薄きなり。或いは之を貴びて生き、或いは之を賤しみて死し、或いは之を愛して厚く、或いは之を輕んじて薄し。此れ順に似たり、順に非ざるなり。此れも亦た自ら生き自ら死し、自ら厚く自ら薄きなり。鬻熊文王に語げて曰く、自ら長きは增す所に非ず、自ら短きは損ずる所に非ず。算の亡き所を若何せん、と。老聃關尹に語げて曰く、天の惡む所、孰か其の故を知らん、と。天意を迎え、利害を揣るは、其の已むに如かざるを言うなり。
-
荘子・庚桑楚古の人、其の知至る所有り。悪(いず)くにか至る。以て未だ始めより物有らずと為す者、至れり尽くせり、以て加うべからず。其の次は以て物有りと為し、将に生を以て喪と為し、死を以て反ると為さんとす。是を以て分かるるのみ。其の次は曰く、始めは有る無し。既にして生有り、生は俄(にわ)かにして死す。無有を以て首と為し、生を以て体と為し、死を以て尻と為す。孰か有無死生の一守なるを知らん。吾は之と友たらん。是の三者は異なると雖も、公族なり。昭・景は、戴(たい)を著(あら)わすなり。甲氏は、封を著わすなり。一に非ざるなり。
-
荘子・田子方孔子曰く、「何の謂いぞや」と。曰く、「心は焉(ここ)に困(くる)しみて知る能わず、口は焉に辟(へき)して言う能わず。嘗みに汝の為に其の将(ほぼ)を議せん。至陰は粛粛(しゅくしゅく)たり、至陽は赫赫(かくかく)たり。粛粛は天より出で、赫赫は地より発す。両者交通して和を成して物焉に生ず。或いは之が紀(き)を為すも、而も其の形を見る莫し。消息満虚(しょうそくまんきょ)し、一たびは晦(くら)く一たびは明らかなり。日に改まり月に化す。日に為す所有るも、而も其の功を見る莫し。生は萌(きざ)す所有り、死は帰する所有り。始終は相反して端(はし)無し。而も其の窮まる所を知る莫し。是に非ざれば、且つ孰(たれ)か之が宗を為さん」と。
-
荘子・知北遊中国に人有り。陰に非ず陽に非ず、天地の間に処る。直(た)だ且(しばら)く人と為り、将に宗に反らんとす。本より之を観れば、生なる者は、暗醷(あんい)の物なり。寿夭有りと雖も、相去ること幾何(いくばく)ぞ。須臾(しゅゆ)の説なり。奚(なん)ぞ以て堯・桀の是非と為すに足らんや。
-
『列子』天瑞篇子貢曰く、壽は人の情なり、死は人の惡む所なり。子死を以て樂しみと爲すは、何ぞや、と。林類曰く、死と生とは、一たび往き一たび反るなり。故に是に死する者は、彼に生ぜざるを安んぞ知らん。故に吾は其の相い若かざるを知るなり。吾又た安んぞ營營として生を求むるの惑いに非ざるを知らん。亦た又た安んぞ吾が今の死の昔の生に愈らざるを知らん、と。子貢之を聞き、其の意を喻らず、還りて以て夫子に告ぐ。夫子曰く、吾は其の與に言うべきを知れり、果たして然り。然れども彼は之を得て盡くさざる者なり、と。
-
『淮南子』精神訓夫れ人の其の壽命を終うる能わずして、中道に刑戮に夭する所以の者は、何ぞや。其の生を生とすること厚きを以てなり。夫れ惟だ能く生を以て為すこと無き者のみ、則ち生を修め得る所以なり。夫れ天地は運りて相い通じ、萬物は總べて一と為る。能く一を知れば、則ち一として知らざる無し。一を知る能わざれば、則ち一として能く知る無し。譬えば吾の天下に處るや、亦た一物為るのみ。識らず、天下の我を以て其の物を備うるか、且た惟だ我無くして物 備わらざる無き者か。然らば則ち我も亦た物なり、物も亦た物なり。物の物と、又た何を以てか相い物とせんや。然りと雖も、其の我を生ずるや、將に以て何をか益さんとする。其の我を殺すや、將に以て何をか損せんとする。夫れ造化なる者 既に我を以て坯と為せり、將に之に違う所無からんとす。吾 安んぞ夫の刺灸して生を欲する者の惑いに非ざるを知らんや。又た安んぞ夫の絞經して死を求むる者の福に非ざるを知らんや。或いは生は乃ち徭役にして、死は乃ち休息なるか。天下茫茫、孰か之を知らんや。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る