列子 / 天瑞篇
人自生至終、大化有四:嬰孩也、少壯也、老耄也、死亡也。其在嬰孩、氣專志一、和之至也、物不傷焉、德莫加焉。其在少壯、則血氣飄溢、欲慮充起、物所攻焉、德故衰焉。其在老耄、則欲慮柔焉、體將休焉、物莫先焉。雖未及嬰孩之全、方於少壯、間矣。其在死亡也、則之於息焉、反其極矣。
新字:人自生至終、大化有四:嬰孩也、少壮也、老耄也、死亡也。其在嬰孩、気専志一、和之至也、物不傷焉、徳莫加焉。其在少壮、則血気飄溢、欲慮充起、物所攻焉、徳故衰焉。其在老耄、則欲慮柔焉、体将休焉、物莫先焉。雖未及嬰孩之全、方於少壮、間矣。其在死亡也、則之於息焉、反其極矣。
書き下し
人生より終に至るまで、大化に四有り。嬰孩なり、少壯なり、老耄なり、死亡なり。其の嬰孩に在るや、氣專らに志一なり、和の至れるなり。物傷らず、德加うる莫し。其の少壯に在るや、則ち血氣飄溢し、欲慮充ち起こる。物の攻むる所となり、德故に衰う。其の老耄に在るや、則ち欲慮柔らぐ。體將に休まんとし、物先んずる莫し。未だ嬰孩の全きに及ばずと雖も、少壯に方ぶれば、間あり。其の死亡に在るや、則ち息うに之く、其の極に反るなり。
現代語訳
人が生まれてから終わるまでに、大きな変化が四つある。赤ん坊、若く盛んな時期、老い、そして死である。赤ん坊のときは、気が一つに集まり、志も一つで、調和の極みにある。外の物に傷つけられることがなく、これ以上加えるべき徳もない。若く盛んなときは、血気があふれ、欲と思慮がわき上がる。外の物に攻められ、徳はそのぶん衰える。老いたときは、欲と思慮がやわらぐ。体は休もうとし、外の物が先に立ってこない。赤ん坊の完全さには及ばないが、若く盛んなときに比べれば、へだたりがある。死んだときは、休息へと向かい、もとの極みへ還るのだ。
解説
人生の四段階を、力の強さではなく調和の深さで測っています。だから頂点は若く盛んな時期ではなく、赤ん坊です。何もできないが、何にも傷つけられていない。そして老いは衰退ではなく、赤ん坊へ近づき直す過程として置かれます。欲と思慮がやわらぎ、外の物が先に立ってこない。ここは経営者の後半生の読み方を変える箇所です。判断の速さや押しの強さで自分を測り続ければ、老いは一方的な下り坂にしか見えません。しかし攻められにくくなったこと、欲が減ったことを別の指標で数えれば、若い頃には持てなかった位置に立っています。後継に何を渡せるかは、たいていこの位置から見えるものです。
この章句が説くこと
大化に四有り嬰孩・少壮・老耄・死亡気専らに志一和の至れるなり陰陽
関連する章句
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『列子』天瑞篇其の言に曰く、生ずる有り生ぜざる有り、化する有り化せざる有り。生ぜざる者は能く生を生じ、化せざる者は能く化を化す。生ずる者は生ぜざる能わず、化する者は化せざる能わず。故に常に生じ常に化す。常に生じ常に化する者は、時として生ぜざる無く、時として化せざる無し。陰陽のみ、四時のみ。生ぜざる者は疑獨、化せざる者は往復す。往復すれば、其の際は終うべからず。疑獨なれば、其の道は窮むべからず。黄帝書に曰く、谷神は死せず、是を玄牝と謂う。玄牝の門、是を天地の根と謂う。綿綿として存するが若く、之を用いて勤きず、と。故に物を生ずる者は生ぜず、物を化する者は化せず。自ら生じ自ら化し、自ら形り自ら色どり、自ら智あり自ら力あり、自ら消え自ら息う。之を生化形色智力消息せしむる者と謂うは、非なり。
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『列子』天瑞篇故に生ずる者有り、生を生ずる者有り。形ある者有り、形を形づくる者有り。聲ある者有り、聲を聲たらしむる者有り。色ある者有り、色を色たらしむる者有り。味ある者有り、味を味たらしむる者有り。生の生ずる所の者は死す、而れども生を生ずる者は未だ嘗て終わらず。形の形づくる所の者は實つ、而れども形を形づくる者は未だ嘗て有らず。聲の聲たる所の者は聞こゆ、而れども聲を聲たらしむる者は未だ嘗て發せず。色の色たる所の者は彰わる、而れども色を色たらしむる者は未だ嘗て顯れず。味の味たる所の者は嘗めらる、而れども味を味たらしむる者は未だ嘗て呈れず。皆な無爲の職なり。能く陰たり能く陽たり、能く柔たり能く剛たり、能く短かり能く長し、能く員かに能く方に、能く生き能く死し、能く暑く能く涼しく、能く浮き能く沈み、能く宮たり能く商たり、能く出で能く沒し、能く玄く能く黄に、能く甘く能く苦く、能く羶く能く香し。知無きなり、能無きなり、而も知らざる無きなり、而も能わざる無きなり。
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説苑・辨物夫れ天地に徳有り、合すれば則ち生気精有り。陰陽消息すれば則ち変化に時有り。時を得て治まり、時を得て化す、時を失えば則ち乱る。是の故に人生まれて具わらざる者五つ。目見ゆる無く、食らう能わず、行く能わず、言う能わず、化を施す能わず。故に三月にして眼達して後に能く見、七月にして歯生じて後に能く食らい、期年にして臏(ひざ)生じて後に能く行き、三年にして合して後に能く言い、十六にして精通じて後に能く化を施す。陰窮まれば陽に反り、陽窮まれば陰に反る。故に陰は陽を以て変じ、陽は陰を以て変ず。故に男は八月にして歯を生じ、八歳にして歯を毀ち、二八十六にして精小しく通ず。女は七月にして歯を生じ、七歳にして歯を毀ち、二七十四にして精化小しく通ず。不肖なる者は精化始めて至り、生気感動し、情に触れて欲を縦にす。故に反りて施化を乱す。故に詩に云う、「乃ち之くの人の如きは、婚姻を懐うなり。大いに信無きなり、命を知らざるなり」と。賢者は然らず、精化填盈して後、時の遇うべからざるを傷み、道端を見ずして、乃ち情欲を陳べて以て歌う。詩に曰わく、「静女其れ姝(しゅ)なり、我を城隅に俟つ。愛して見えず、首を掻きて踟躕(ちちゅう)す」と。「彼の日月を瞻(み)て、遙遙として我思う。道の云(ここ)に遠し、曷(なん)ぞ来る能わん」と。時を急(せ)くの辞なり、甚だしきかな、故に日月を称するなり。
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『列子』天瑞篇粥熊曰く、運轉して已むこと亡く、天地は密かに移る。疇か之を覺らんや。故に物の彼に損する者は此に盈ち、此に成る者は彼に虧く。損盈成虧は、世に隨いて死に隨う。往來相い接し、間は省すべからず。疇か之を覺らんや。凡そ一氣は頓かに進まず、一形は頓かに虧けず。亦た其の成るを覺えず、亦た其の虧くるを覺えず。亦た人の世より老に至るまで、貌色智態、日として異ならざる亡く、皮膚爪髮、世に隨いて落つるが如し。嬰孩の時に停まりて易わらざるに非ざるなり。間は覺るべからず、後に至るを俟ちて知る、と。
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『列子』天瑞篇黄帝書に曰く、形動きて形を生ぜずして影を生じ、聲動きて聲を生ぜずして響を生じ、無動きて無を生ぜずして有を生ず、と。形は必ず終わる者なり。天地は終わるか。我と偕に終わらん。終わり進むか。知らざるなり。道の終わるは本と始め無きに、進むは本と久しからざるに。生有れば則ち不生に復り、形有れば則ち無形に復る。不生なる者は、本と不生なる者に非ざるなり。無形なる者は、本と無形なる者に非ざるなり。生とは、理の必ず終わる者なり。終わる者の終わらざるを得ざるは、亦た生ずる者の生ぜざるを得ざるが如し。而るに其の生を恆にし、其の終わりを畫せんと欲するは、數に惑うなり。