礼記 / 明堂位
昔殷紂亂天下,脯鬼侯以饗諸侯。是以周公相武王以伐紂。武王崩,成王幼弱,周公踐天子之位以治天下;六年,朝諸侯於明堂,制禮作樂,頒度量,而天下大服;七年,致政於成王;成王以周公為有勛勞於天下,是以封周公於曲阜,地方七百里,革車千乘,命魯公世世祀周公以天子之禮樂。
新字:昔殷紂乱天下,脯鬼侯以饗諸侯。是以周公相武王以伐紂。武王崩,成王幼弱,周公践天子之位以治天下;六年,朝諸侯於明堂,制礼作楽,頒度量,而天下大服;七年,致政於成王;成王以周公為有勛労於天下,是以封周公於曲阜,地方七百里,革車千乗,命魯公世世祀周公以天子之礼楽。
書き下し
昔、殷紂天下を乱し、鬼侯を脯(ほじし)にして以て諸侯に饗す。是を以て周公、武王を相(たす)けて以て紂を伐つ。武王崩じ、成王幼弱なれば、周公、天子の位を践(ふ)みて以て天下を治む。六年にして、諸侯を明堂に朝せしめ、礼を制し楽を作り、度量を頒(わか)ちて、天下大いに服す。七年にして、政を成王に致す。成王、周公を以て天下に勲労有りと為し、是を以て周公を曲阜に封ず。地は方七百里、革車千乗、魯公に命じて世々周公を祀るに天子の礼楽を以てせしむ。
現代語訳
昔、殷の紂王は天下を乱し、鬼侯(殷の諸侯の一人)を殺してその肉を干し肉にし、諸侯をもてなした。そこで周公は武王を補佐して紂を討った。武王が崩御し、成王が幼くか弱かったので、周公は天子の位について天下を治めた。六年目に、諸侯を明堂に朝見させ、礼を制定し楽を作り、度量衡を定めて天下に頒布すると、天下は大いに服従した。七年目に、政権を成王に返した。成王は、周公が天下に大きな功労があったとして、周公を曲阜に封じた。その領地は七百里四方、兵車は千乗であり、魯公(周公の子伯禽の系統)に命じて、代々周公を天子の礼楽によって祀らせた。
解説
この章句が説くこと
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史記 周本紀武王已に殷に克ち、後二年、箕子に殷の亡びし所以を問ふ。箕子殷の悪を言ふに忍びず、存亡の国の宜しきを以て告ぐ。武王も亦醜ぢ、故に問ふに天道を以てす。武王病む。天下未だ集まらず、群公懼れ、穆卜す。周公乃ち祓斎し、自ら質と為り、武王に代はらんと欲す。武王瘳ゆる有り。後にして崩じ、太子誦代はりて立つ。是を成王と為す。成王少く、周初めて天下を定む。周公諸侯の周に畔かんことを恐れ、公乃ち摂行して政し国に当たる。管叔・蔡叔の群弟周公を疑ひ、武庚と乱を作し、周に畔く。周公成王の命を奉じ、武庚・管叔を伐ちて誅し、蔡叔を放つ。微子開を以て殷の後に代へ、宋に国せしむ。頗る殷の余民を収め、以て武王の少弟封を封じて衛の康叔と為す。晋の唐叔嘉穀を得、之を成王に献ず。成王以て周公に兵所に帰る。周公禾を東土に受け、天子の命を魯ぶ。初め、管・蔡周に畔き、周公之を討ち、三年にして畢く定む。故に初めに大誥を作り、次に微子之命を作り、次に帰禾、次に嘉禾、次に康誥・酒誥・梓材を作る。其の事は周公の篇に在り。周公政を行ふこと七年、成王長じ、周公政を成王に反し、北面して群臣の位に就く。成王豊に在り、召公をして復た洛邑を営ましむ、武王の意の如し。周公復た卜して申ねて視、卒に営築し、九鼎を居く。曰く、「此れ天下の中にして、四方の入貢の道里均し」と。召誥・洛誥を作る。成王既に殷の遺民を遷し、周公王命を以て告げ、多士・無佚を作る。召公保と為り、周公師と為り、東のかた淮夷を伐ち、奄を残し、其の君を薄泵に遷す。成王奄より帰り、宗周に在りて、多方を作る。既に殷の命を絀け、淮夷を襲ひ、帰りて豊に在り、周官を作る。礼楽を興正し、度制是に於て改まり、而して民和睦し、頌声興る。成王既に東夷を伐ち、息慎来たりて賀す。王栄伯に賜ひて賄息慎之命を作らしむ。
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礼記・明堂位昔者(むかし)、周公、諸侯を明堂の位に朝せしむ。天子は斧依(ふい)を負いて南郷して立つ。三公は、中階の前に、北面して東を上とす。諸侯の位は、阼階の東に、西面して北を上とす。諸伯の国は、西階の西に、東面して北を上とす。諸子の国は、門の東に、北面して東を上とす。諸男の国は、門の西に、北面して東を上とす。九夷の国は、東門の外に、西面して北を上とす。八蛮の国は、南門の外に、北面して東を上とす。六戎の国は、西門の外に、東面して南を上とす。五狄の国は、北門の外に、南面して東を上とす。九采の国は、応門の外に、北面して東を上とす。四塞は、世ごとに至るを告ぐ。此れ周公の明堂の位なり。明堂なる者は、諸侯の尊卑を明らかにするなり。
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荀子・儒効篇客に道う有りて曰く、孔子曰く、周公は其れ盛んなるかな。身貴くして愈々恭しく、家富みて愈々倹に、敵に勝ちて愈々戒む、と。之に応えて曰く、是れ殆ど周公の行いに非ず、孔子の言に非ざるなり。武王崩じ、成王幼くして、周公は成王を屏けて武王に及び、天子の籍を履み、扆に負いて立ち、諸侯は堂下に趨走す。是の時に当たりてや、夫れ又た誰にか恭しくせんや。天下を兼制し七十一国を立て、姫姓独り五十三人を居く。周の子孫、苟くも狂惑ならざる者は、天下の顕たる諸侯と為らざる莫し。孰か周公を倹と謂わんや。武王の紂を誅するや、行くの日は兵忌を以てし、東面して太歳を迎う。氾に至りて汎れ、懐に至りて壊れ、共頭に至りて山隧つ。霍叔懼れて曰く、出でて三日にして五災至る、乃ち不可なること無からんや、と。周公曰く、比干を刳きて箕子を囚え、飛廉・悪来政を知る、夫れ又た悪くんぞ不可なること有らんや、と。遂に馬を選びて進み、朝に戚に食し、暮に百泉に宿し、旦を牧の野に厭う。之を鼓して紂の卒郷を易え、遂に殷人に乗じて紂を誅す。蓋し殺す者は周人に非ず、殷人に因るなり。故に首虜の獲無く、難を蹈むの賞無し。反りて三革を定め、五兵を偃せ、天下を合し、声楽を立つ。是に於て武象起こりて韶護廃る。四海の内、心を変じ慮を易えて以て之に化順せざる莫し。故に外闔閉ざさず、天下を跨ぎて蘄ぐ無し。是の時に当たりてや、夫れ又た誰をか戒めんや。
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尚書・洛誥師に居り、宗を惇くし礼を将(おこな)ひ、元祀を称秩し、咸く秩して文無きものまで祀らしむ。惟れ公の徳は上下に明光し、勤めて四方に施し、旁く穆穆を作し、衡を御して迷はず、文武の勤教あり。予沖子は夙夜祀を毖(つつし)まん。」王曰く、「公の功は棐迪篤く、時(こ)れに若はざる罔し。」王曰く、「公、予小子は其れ退きて周に即辟し、公に命じて後(とど)めん。四方迪(すす)みて乱(おさ)まれども、未だ宗礼を定むるに及ばず、亦未だ公の功を敉(を)ふる克はず。迪(みちび)きて其の後を将ひ、我が士・師・工を監し、誕いに文武の受けし民を保ち、乱めて四輔と為れ。」王曰く、「公定まれ、予は往かんのみ。公の功は粛将祗歓せらる。公、我を困しむる無かれ。惟れ其の康事に斁(いと)ふこと無く、公替(す)つる勿く、四方に刑(のり)とならば、其れ世々享けん。」周公拝手稽首して曰く、「王、予に命じて来たりて乃の文祖の受命の民を承保し、越(およ)び乃の光烈なる考武王を弘めしむ、朕恭す。孺子来たりて宅を相(み)、其れ大いに殷の献民を惇典し、乱めて四方の新辟と為り、周の恭先と作れ。曰く、其れ時より中乂すれば、万邦咸休し、惟れ王に成績有らん。予旦、多子越び御事を以て、前人の成烈を篤くし、其の師に答へ、周の孚先と作らん。朕が昭子の刑を考へ、乃ち文祖の徳を単(つく)さん。伻をして来たりて殷を毖(いまし)めしめ、乃ち命じて予を寧(やす)んずるに秬鬯二卣を以てし、曰く、『明禋し、拝手稽首して休く享せよ』と。予敢へて宿せず、則ち文王・武王に禋す。恵みて篤く叙し、自ら疾に遘ふこと有る無く、万年乃の徳に猒(あ)き、殷乃ち引考せん。王、殷をして乃ち承叙せしめば、万年其れ永く朕が子の徳を懐くを観ん。」戊辰、王、新邑に在りて烝祭し、歳に文王に騂牛一、武王に騂牛一。王、作冊逸に命じて祝冊せしめ、惟れ周公其の後(とど)まるを告ぐ。王の賓、殺し禋し、咸く格る。王、太室に入りて祼す。王、周公に命じて後めしめ、作冊逸誥す。十有二月に在り。惟れ周公誕いに文武の受命を保つこと、惟れ七年なり。
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礼記・祭統昔者、周公旦、天下に勲労有り。周公既に没し、成王・康王、周公の勲労せし所以の者を追念して、魯を尊ばんと欲す。故にこれに賜うに重祭を以てす。外祭は、則ち郊社是れなり。内祭は、則ち大嘗禘是れなり。夫れ大嘗禘は、清廟を升歌し、下にして象を管し、朱干玉戚、以て大武を舞い、八佾(はちいつ)、以て大夏を舞う。此れ天子の楽なり。周公を康(おお)いにす、故に以て魯に賜うなり。子孫これを纂(つ)ぎ、今に至るまで廃せず。周公の徳を明らかにして又た以てその国を重んずる所以なり。
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史記 魯周公世家周公旦は、周の武王の弟なり。文王の在りし時より、旦は子と為りて孝、篤く仁にして、群子に異なる。武王即位するに及び、旦常に武王を輔翼し、事を用ふること多きに居る。武王の九年、東伐して盟津に至る。周公輔けて行く。十一年、紂を伐ちて牧野に至る。周公、武王を佐けて牧誓を作る。殷を破りて商の宮に入る。已に紂を殺し、周公は大鉞を把り、召公は小鉞を把りて、以て武王を夾み、社に釁りて、紂の罪を天及び殷の民に告ぐ。箕子の囚を釈く。紂の子武庚禄父を封じ、管叔・蔡叔をして之に傅たらしめ、以て殷の祀を続がしむ。遍く功臣・同姓・戚者を封ず。周公旦を少昊の虚曲阜に封ず。是れを魯公と為す。周公封に就かず、留まりて武王を佐く。武王殷に克ちて二年、天下未だ集まらず。武王疾有りて、豫ばず。群臣懼る。太公・召公乃ち繆卜す。周公曰く、「未だ以て我が先王を戚へしむ可からず」と。
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