二宮翁夜話 / 巻之四
或問ふ、「春は花秋は紅葉と夢うつゝ寝ても醒ても有明の月」とは如何なる意なるや。翁曰、是は色則是空、空則是色、と云へる心を詠めるなり。夫色とは肉眼に見ゆる物を云、天地間森羅万象是なり、空とは肉眼に見えざる物を云、所謂玄の又玄と云へるも是なり、世界は循環変化の理にして、空は色を顕し、色は空に帰す、皆循環の為に変化せざるを得ざる、是天道なり、夫今は野も山も真青なれども、春になれば、梅が咲き桃桜咲き、爛漫馥郁たり、夫も見る間に散失せ、秋になれば、麓は染ぬ、峰も紅葉しぬ、実に錦繡をも欺むけりと詠むるも、一夜木枯吹けば、見る影もなくちり果るなり、人も又同く、子供は育ち、若年は老年になり、老人は死す、死すれば又産れて、新陳交代する世の中なり、さりとて悟りたる為に、花の咲にあらず、迷ひたるが為に、紅葉の散るにあらず、悟りたる為に、産るゝにあらず、迷ひたる為に、死するにもあらず、悟ても迷ても、寒い時は寒く、暑い時は暑く、死ぬ者は死し、生るゝ者は生れて、少しも関係なければ、是を「ねても覚ても在明の月」と詠るなり、別意あるにあらず、只悟道と云物も、敢て益なきものなる事を、よめるなり。
新字:或問ふ、「春は花秋は紅葉と夢うつゝ寝ても醒ても有明の月」とは如何なる意なるや。翁曰、是は色則是空、空則是色、と云へる心を詠めるなり。夫色とは肉眼に見ゆる物を云、天地間森羅万象是なり、空とは肉眼に見えざる物を云、所謂玄の又玄と云へるも是なり、世界は循環変化の理にして、空は色を顕し、色は空に帰す、皆循環の為に変化せざるを得ざる、是天道なり、夫今は野も山も真青なれども、春になれば、梅が咲き桃桜咲き、爛漫馥郁たり、夫も見る間に散失せ、秋になれば、麓は染ぬ、峰も紅葉しぬ、実に錦繍をも欺むけりと詠むるも、一夜木枯吹けば、見る影もなくちり果るなり、人も又同く、子供は育ち、若年は老年になり、老人は死す、死すれば又産れて、新陳交代する世の中なり、さりとて悟りたる為に、花の咲にあらず、迷ひたるが為に、紅葉の散るにあらず、悟りたる為に、産るゝにあらず、迷ひたる為に、死するにもあらず、悟ても迷ても、寒い時は寒く、暑い時は暑く、死ぬ者は死し、生るゝ者は生れて、少しも関係なければ、是を「ねても覚ても在明の月」と詠るなり、別意あるにあらず、只悟道と云物も、敢て益なきものなる事を、よめるなり。
書き下し
或(ある)ひと問ふ、「春は花秋は紅葉(もみじ)と夢(ゆめ)うつゝ寝(ね)ても醒(さ)めても有明(ありあけ)の月」とは如何(いか)なる意(い)なるや。翁(おきな)曰(いわ)く、是(これ)は色(しき)則是空(すなわちこれくう)、空則是色(くうすなわちこれしき)、と云へる心を詠(よ)めるなり。夫(それ)色とは肉眼に見ゆる物を云ふ、天地間森羅万象(しんらばんしょう)是なり。空(くう)とは肉眼に見えざる物を云ふ、所謂(いわゆる)玄(げん)の又玄(またげん)と云へるも是なり。世界は循環(じゅんかん)変化(へんか)の理(り)にして、空は色を顕(あら)はし、色は空に帰す、皆循環の為に変化せざるを得ざる、是天道なり。夫(それ)今は野も山も真青(まあお)なれども、春になれば、梅が咲き桃(もも)桜(さくら)咲き、爛漫(らんまん)馥郁(ふくいく)たり。夫(それ)も見る間に散失(ちりう)せ、秋になれば、麓(ふもと)は染(そ)みぬ、峰(みね)も紅葉しぬ、実に錦繡(きんしゅう)をも欺(あざむ)けりと詠(なが)むるも、一夜木枯(こがらし)吹けば、見る影もなくちり果(は)つるなり。人も又同じく、子供は育(そだ)ち、若年(じゃくねん)は老年になり、老人は死す、死すれば又産(うま)れて、新陳交代する世の中なり。さりとて悟(さと)りたる為に、花の咲くにあらず、迷ひたるが為に、紅葉の散るにあらず、悟りたる為に、産るゝにあらず、迷ひたる為に、死するにもあらず。悟りても迷ひても、寒(さむ)い時は寒く、暑(あつ)い時は暑く、死ぬ者は死し、生(うま)るゝ者は生れて、少しも関係(かんけい)なければ、是を「ねても覚(さ)めても在明の月」と詠めるなり。別意(べつい)あるにあらず、只(ただ)悟道(ごどう)と云ふ物も、敢(あへ)て益なきものなる事を、よめるなり。
現代語訳
ある人が尋ねた。「春は花、秋は紅葉と、夢か現か、寝ても覚めても有明の月」という歌はどういう意味かと。翁が言われた。これは「色即是空、空即是色」という心を詠んだものだ。そもそも色とは肉眼に見える物のことで、天地間のあらゆる現象がこれである。空とは肉眼に見えない物のことで、いわゆる「玄の又玄」というのもこれだ。世界は循環し変化する道理であって、空は色となって現れ、色は空に帰す。すべて循環のために変化せざるをえない。これが天道である。今は野も山も真っ青だが、春になれば梅が咲き、桃や桜が咲き、爛漫として香り高い。それもみるみる散り失せ、秋になれば麓は染まり、峰も紅葉して、まことに錦にもまさると眺めても、一夜木枯らしが吹けば見る影もなく散り果てる。人もまた同じで、子供は育ち、若者は老い、老人は死ぬ。死ねばまた生まれて、新陳交代する世の中だ。とはいえ、悟ったから花が咲くのではなく、迷ったから紅葉が散るのでもない。悟ったから生まれるのでもなく、迷ったから死ぬのでもない。悟っても迷っても、寒いときは寒く、暑いときは暑く、死ぬ者は死に、生まれる者は生まれて、悟りとは少しも関係がない。それを「寝ても覚めても有明の月」と詠んだのだ。別の意味があるのではない。ただ、悟りの道というものも、あえて言えば益のないものだということを詠んだのである。
解説
この章句が説くこと
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