言志四録 / 南洲手抄
自彊不息、天道也、君子所以也。如虞舜孳孳爲善、大禹思日孜孜、成湯苟日新、文王不遑暇、周公坐以待旦、孔子發憤忘食、皆是也。彼徒事靜養瞑坐而已、則與此學脈背馳。
新字:自彊不息、天道也、君子所以也。如虞舜孳孳為善、大禹思日孜孜、成湯苟日新、文王不遑暇、周公坐以待旦、孔子発憤忘食、皆是也。彼徒事静養瞑坐而已、則与此學脈背馳。
書き下し
自ら彊めて息まざるは天道なり、君子の以ゐる所なり。虞舜の孳孳として善を為し、大禹の日に孜孜せんことを思ひ、成湯の苟に日に新にせる、文王の遑あき暇あらざる、周公の坐して以て旦を待つ、孔子の憤りを発して食を忘るる如きは、皆是なり。彼の徒に静養瞑坐を事とすのみならば、則ち此の学脈と背馳す。
現代語訳
自ら努めてやまないのが天の道であり、君子がよりどころとするものだ。舜がせっせと善を行い、禹が日々努力を思い、湯王が日に日に新たにと励み、文王が休む暇もなく、周公が座して夜明けを待ち、孔子が発憤して食を忘れた——みなこの「自彊不息」である。もしただ静かに養生し瞑坐するだけなら、この学問の流れ(学脈)に背いてしまう。
解説
儒学の学びは静かな瞑想ではなく、たゆまぬ実践だと力説した一条です。「自彊不息(自ら努めてやまない)」こそ天の道であり、舜・禹・湯・文王・周公・孔子という聖王聖人はみな、休みなく善に励み、日々を新たにし、寝る間も惜しんで努めた——それが儒学の本流だと並べ立てます。そのうえで、ただ静座して心を養うだけの静的な修養は、この活動的な学脈に背く、と釘を刺します。禅や道家の静的な傾向への牽制でもあり、実践を重んじる一斎の面目躍如。修養を静かに整えることと考えがちな私たちに、その本義は動き続けることだと示す一条です。
この章句が説くこと
自彊不息天道実践聖人
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