二宮翁夜話 / 巻之二
俗儒あり、翁の愛護を受て儒学を子弟に教ふ、一日近村に行て大飲し酔ふて路傍に臥し醜体を極めたり、弟子某氏の子、是を見て、翌日より教を受ず、儒生憤りて、翁に謂て曰、予が所行の不善云までにあらずといへども、予が教る処は聖人の書なり、予が行の不善を見て併せて聖人の道を捨るの理あらんや、君説諭して、再び学に就かしめよ、と乞ふ、翁曰、君憤る事なかれ、我譬を以て是を解せん、爰に米あり、飯に炊で糞桶に入れんに、君是を食はんか、夫元清浄なる米飯に疑なし、只糞桶に入れしのみなり、然るに、人是を食する者なし、是を食するは只犬のみ、君が学文又是におなじ、元赫々たる聖人の学なれども、卿が糞桶の口より講説する故に、子弟等聴ざる也、其聴かざるを不理と云べけんや、夫卿は中国の産と聞けり、誰に頼まれて此地に来りしぞ、又何の用事ありて来りしや、夫家を出ずして、教を国になすは聖人の道なり、今此処に来りて、予が食客となる、是何故ぞ、口腹を養ふのみならば、農商をなしてたるべし、卿何故に学問をせしや、儒生曰、我過てり、我只人に勝む事のみを欲して読書せるなり、我過てり、と云て謝して去れり。
書き下し
俗儒あり、翁の愛護を受けて儒学を子弟(してい)に教ふ、一日近村に行きて大飲(たいいん)し酔ひて路傍(ろぼう)に臥(ふ)し醜体(しゅうたい)を極めたり、弟子某氏の子、是を見て、翌日より教を受けず、儒生憤(いきどお)りて、翁に謂ひて曰(いわ)く、予が所行の不善云ふまでにあらずといへども、予が教ふる処は聖人の書なり、予が行の不善を見て併(あわ)せて聖人の道を捨つるの理あらんや、君説諭して、再び学に就かしめよ、と乞ふ、翁曰く、君憤る事なかれ、我譬(たと)へを以て是を解せん、爰(ここ)に米あり、飯に炊(かし)ぎて糞桶(くそおけ)に入れんに、君是を食はんか、夫(そ)れ元清浄なる米飯に疑なし、只糞桶に入れしのみなり、然るに、人是を食する者なし、是を食するは只犬のみ、君が学文(がくもん)又是におなじ、元赫々(かくかく)たる聖人の学なれども、卿(きみ)が糞桶の口より講説する故に、子弟等聴かざる也、其の聴かざるを不理と云ふべけんや、夫れ卿は中国の産(さん)と聞けり、誰に頼まれて此の地に来りしぞ、又何の用事ありて来りしや、夫れ家を出でずして、教を国になすは聖人の道なり、今此処に来りて、予が食客となる、是れ何故ぞ、口腹を養ふのみならば、農商をなしてたるべし、卿何故に学問をせしや、儒生曰く、我過てり、我只人に勝たむ事のみを欲して読書せるなり、我過てり、と云ひて謝して去れり。
現代語訳
ある通俗な儒者がいて、翁の庇護を受けて子弟に儒学を教えていた。ある日近くの村へ行って大酒を飲み、酔って道端に倒れ、醜態をさらけ出した。弟子であるさる家の子がこれを見て、翌日から教えを受けなくなった。儒者は憤って翁に言った。私の行いの不善はいうまでもありませんが、私が教えるのは聖人の書です。私の行いの不善を見て、あわせて聖人の道まで捨てる道理がありましょうか。あなたから説き諭して、再び学ばせてください、と乞うた。翁が言われた。あなたは憤ってはいけない。譬えで説明しよう。ここに米がある。飯に炊いて糞桶に入れたら、あなたはこれを食べるか。もとは清らかな米の飯であることに疑いはない。ただ糞桶に入れただけだ。それなのに人はこれを食べる者がない。食べるのは犬だけだ。あなたの学問もこれと同じだ。もとは輝かしい聖人の学であっても、あなたという糞桶の口から講釈する。だから子弟たちが聴かないのだ。その聴かないのを道理に合わないといえようか。あなたは中国(諸国の意)の生まれと聞いている。誰に頼まれてこの地に来たのか。また何の用があって来たのか。そもそも家を出ないで教えを国に及ぼすのが聖人の道だ。今ここに来て私の食客となっている。これはなぜか。ただ腹を満たすだけなら、農業や商売をすれば足りるはずだ。あなたはなぜ学問をしたのか。儒者は言った。私が間違っていました。私はただ人に勝つことばかりを望んで書を読んでいたのです。私が間違っていました、と言って詫びて去った。
解説
この章句が説くこと
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『格言聯璧』學問類・士は學有りと雖も行を本と爲す戰は陣有りと雖も、而も勇を本と爲す。 喪は禮有りと雖も、而も哀を本と爲す。 士は學有りと雖も、而も行を本と爲す。 飄風は以て宮商を調ふべからず。巧婦は以て中饋を主るべからず。文章の士は以て國家を治むべからず。 經濟は學問より出づれば、經濟方めて本源有り。
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『酔古堂剣掃』集豪・胸中に三斗の墨無くんば士大夫胸中に三斗の墨無くんば、何を以てか管城を運らさん。然れども恐らくは醞釀して宿陳すれば、之を出だすに光澤無からんのみ。
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『大和俗訓』巻之一・為学上かくの如くなれば、人と生れたるかひなし。万物の霊とすべからず。此ゆゑに聖人是をうれひ、賢臣を以て万民の師として、人倫の道を教へさせ給ふ。是人となるものは、必道を学ばずんば有べからざればなり。愚おもへらく、人と生れて学びざれば、生れざると同じ、まなんでも道を知らざれば、学びざると同じ。道を知りても行はざれば知らざるに同じ。其故いかんとなれば、人と生れて学びざれば、人の道を知らずして、人と生れたるかひなし。是人とむまれて学びざれば、生れざると同じきなり。学ぶは道を知らんが為なり。もし学びやうあしくて道を知らずんば、学びざると同じきなり。又道を知るは、行はんがためなり。まなんで道を知りても、行はざれば知らざるに同じ。
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言志四録・言志耋録 第一条 学に三等有り学は一なり。而して等に三有り。初めは文を学び、次は行を学び、終りは心を学ぶ。然れども初めの文を学ばんと欲するも、既に吾が心に在れば、則ち終りの心を学ぶは、乃ち是れ学の熟するなり。三有りて三無し。
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言志四録・言志晩録 第四十三条 講説は其の人に在り講説は其の人に在りて、口弁に在らず。「君子は義に喩り、小人は利に喩る」の如き、常人此れを説けば、蠟を嚼むが如く味無し。象山此れを説けば、則ち聴く者をして愧汗せしむ。視て易事と為すこと勿れ。
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『不動智神妙録』一心の明らめやう説く人の分にては知れ申す間敷候、世の中に仏道も儒道も心を説き候得共、其説く如く其人の身持なく候心は明かに知らぬ物にて候、人々我身にある一心本来を篤と極め悟り候はねは不明候、又参学をしたる人の心が明かならぬは、参学する人も多く候へどもそれにもよらず候、参学したる人心持皆々悪敷候、此一心の明らめやうは深く工夫の上より出で可申候。

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