夢中問答集 / 『夢中問答集』教外別伝は思い込みか(二)
傳敎大師の禪宗を相承しおはします事分明なり嵯峨天皇の御時、日本の僧慧夢勅定によりて、佛法流傳のために大唐へわたる鹽官の安國師に參じて禪法を相承す、仍て其の會下の僧義空禪師を請じて我が朝にわたらしむ、東寺の西院に寄宿し玉へり。弘法大師此の由を奏聞し玉ふ、天皇及皇后御對面ありき、皇后宿習開發して敎外の宗旨を悟りましましき、嵯峨の內に檀林寺を建立せられ、仍て檀林皇后と名け奉る、義空禪師を請じて此の寺に住せしむ、禪師の云く、禪宗の此の國にあまねく流布すべき時節いまだ到來せず、この故に本朝の先德もたゞ敎乘を流傳して、いまだ最上乘をば流布し玉はず、我も亦此國にありては利益すくなかるべしとて、三年と申すに大唐へ歸り玉ひき、此の事を未來にしらしめんとて、唐より石碑をわたして東寺に留め置かれたり。開元寺の沙門契元其の文を書せり、其の始めの題目には日本に首て禪宗を傳ふる記といへり。禪宗若しいたづらごとならば、弘法大師何ぞ彼の禪師を擧達せしめ玉はんや。慈覺大師は山上に禪堂をつくりて、禪法を御興行ありき、智證大師の敎相同異集に云く、日本に八宗あり、南京に六宗あり、倶舍宗成實宗律宗法相宗三論宗花嚴宗なり、北京に二宗あり、天台宗眞言宗なり、倶舍成實の二宗はみな小乘なり、律宗は大小乘に通ず、其の餘の五宗はみな大乘なり、此外に禪門宗あり、八宗の攝にあらず、山上の大師等みな相承し玉へりと云云。顯密の奧義をきはめ玉へる事、誰れ人か此の四大師にまさり奉らんや、禪宗若し胸臆の說ならば、何の故にか顯密の外に又此の一宗をあがめ玉ふ事あらんや。安然和尙の敎時、諍論に叡山の他山に勝れたることを歎めて云く、我が山には禪門眞言天台の三宗を安置せり、天竺晨旦にもかゝることはいまだなしと云云。聖德太子は南岳大師の再誕也、南岳大師は達磨の宗旨を相承し玉ひし其の因緣によりて、聖德太子佛法を御興行ありし時、大和の片岡山に達磨大師顯現しまします。太子御歌をあそばして贈らせおはします、其の歌に云くしなてるや片岡山の飯にうへてふせる旅人あはれおやなし。大師の御返歌に云く、いかるかやとみの小河のたへばこそ我が大君の御名をわすれめ。幾程なくして入滅の相をしめし玉ふ。太子自ら諸臣と同く石をはこび塚をつきて、大師の御棺をおさめ玉ふ。
新字:伝教大師の禅宗を相承しおはします事分明なり嵯峨天皇の御時、日本の僧慧夢勅定によりて、仏法流伝のために大唐へわたる塩官の安国師に参じて禅法を相承す、仍て其の会下の僧義空禅師を請じて我が朝にわたらしむ、東寺の西院に寄宿し玉へり。弘法大師此の由を奏聞し玉ふ、天皇及皇后御対面ありき、皇后宿習開発して教外の宗旨を悟りましましき、嵯峨の内に檀林寺を建立せられ、仍て檀林皇后と名け奉る、義空禅師を請じて此の寺に住せしむ、禅師の云く、禅宗の此の国にあまねく流布すべき時節いまだ到来せず、この故に本朝の先徳もたゞ教乗を流伝して、いまだ最上乗をば流布し玉はず、我も亦此国にありては利益すくなかるべしとて、三年と申すに大唐へ帰り玉ひき、此の事を未来にしらしめんとて、唐より石碑をわたして東寺に留め置かれたり。開元寺の沙門契元其の文を書せり、其の始めの題目には日本に首て禅宗を伝ふる記といへり。禅宗若しいたづらごとならば、弘法大師何ぞ彼の禅師を挙達せしめ玉はんや。慈覚大師は山上に禅堂をつくりて、禅法を御興行ありき、智証大師の教相同異集に云く、日本に八宗あり、南京に六宗あり、倶舎宗成実宗律宗法相宗三論宗花厳宗なり、北京に二宗あり、天台宗真言宗なり、倶舎成実の二宗はみな小乗なり、律宗は大小乗に通ず、其の余の五宗はみな大乗なり、此外に禅門宗あり、八宗の摂にあらず、山上の大師等みな相承し玉へりと云云。顕密の奥義をきはめ玉へる事、誰れ人か此の四大師にまさり奉らんや、禅宗若し胸臆の説ならば、何の故にか顕密の外に又此の一宗をあがめ玉ふ事あらんや。安然和尚の教時、諍論に叡山の他山に勝れたることを嘆めて云く、我が山には禅門真言天台の三宗を安置せり、天竺晨旦にもかゝることはいまだなしと云云。聖徳太子は南岳大師の再誕也、南岳大師は達磨の宗旨を相承し玉ひし其の因縁によりて、聖徳太子仏法を御興行ありし時、大和の片岡山に達磨大師顕現しまします。太子御歌をあそばして贈らせおはします、其の歌に云くしなてるや片岡山の飯にうへてふせる旅人あはれおやなし。大師の御返歌に云く、いかるかやとみの小河のたへばこそ我が大君の御名をわすれめ。幾程なくして入滅の相をしめし玉ふ。太子自ら諸臣と同く石をはこび塚をつきて、大師の御棺をおさめ玉ふ。
書き下し
傳敎大師の禪宗を相承しおはします事分明なり嵯峨天皇の御時、日本の僧慧夢勅定によりて、佛法流傳のために大唐へわたる鹽官の安國師に參じて禪法を相承す、仍て其の會下の僧義空禪師を請じて我が朝にわたらしむ、東寺の西院に寄宿し玉へり。弘法大師此の由を奏聞し玉ふ、天皇及皇后御對面ありき、皇后宿習開發して敎外の宗旨を悟りましましき、嵯峨の內に檀林寺を建立せられ、仍て檀林皇后と名け奉る、義空禪師を請じて此の寺に住せしむ、禪師の云く、禪宗の此の國にあまねく流布すべき時節いまだ到來せず、この故に本朝の先德もたゞ敎乘を流傳して、いまだ最上乘をば流布し玉はず、我も亦此國にありては利益すくなかるべしとて、三年と申すに大唐へ歸り玉ひき、此の事を未來にしらしめんとて、唐より石碑をわたして東寺に留め置かれたり。開元寺の沙門契元其の文を書せり、其の始めの題目には日本に首て禪宗を傳ふる記といへり。禪宗若しいたづらごとならば、弘法大師何ぞ彼の禪師を擧達せしめ玉はんや。慈覺大師は山上に禪堂をつくりて、禪法を御興行ありき、智證大師の敎相同異集に云く、日本に八宗あり、南京に六宗あり、倶舍宗成實宗律宗法相宗三論宗花嚴宗なり、北京に二宗あり、天台宗眞言宗なり、倶舍成實の二宗はみな小乘なり、律宗は大小乘に通ず、其の餘の五宗はみな大乘なり、此外に禪門宗あり、八宗の攝にあらず、山上の大師等みな相承し玉へりと云云。顯密の奧義をきはめ玉へる事、誰れ人か此の四大師にまさり奉らんや、禪宗若し胸臆の說ならば、何の故にか顯密の外に又此の一宗をあがめ玉ふ事あらんや。安然和尙の敎時、諍論に叡山の他山に勝れたることを歎めて云く、我が山には禪門眞言天台の三宗を安置せり、天竺晨旦にもかゝることはいまだなしと云云。聖德太子は南岳大師の再誕也、南岳大師は達磨の宗旨を相承し玉ひし其の因緣によりて、聖德太子佛法を御興行ありし時、大和の片岡山に達磨大師顯現しまします。太子御歌をあそばして贈らせおはします、其の歌に云くしなてるや片岡山の飯にうへてふせる旅人あはれおやなし。大師の御返歌に云く、いかるかやとみの小河のたへばこそ我が大君の御名をわすれめ。幾程なくして入滅の相をしめし玉ふ。太子自ら諸臣と同く石をはこび塚をつきて、大師の御棺をおさめ玉ふ。
現代語訳
伝教大師が禅宗を相承されたことは明らかである。嵯峨天皇の御代、日本の僧・慧夢が勅命によって、仏法を伝えるために大唐に渡った。塩官の安国師に参じて禅法を相承した。そこでその門下の僧・義空禅師を招いて、わが国に来てもらった。義空禅師は東寺の西院に寄宿された。弘法大師がこの由を天皇に奏上され、天皇と皇后が対面された。皇后は前世からの習いが開発して、教外の宗旨を悟られた。嵯峨の内に檀林寺を建立され、これによって檀林皇后とお呼びする。義空禅師を招いてこの寺に住まわせた。禅師は言われた。禅宗がこの国にあまねく広まる時節は、まだ到来していない。そのため本朝の先徳もただ教乗を伝えて、まだ最上乗を広めておられない。私もこの国にいては利益が少ないであろう、と。三年ほどで大唐に帰られた。この事を未来に知らせるために、唐から石碑を渡して東寺に留め置かれた。開元寺の沙門・契元がその文を書いた。その始めの題目には、日本に初めて禅宗を伝える記、とある。禅宗がもし無駄ごとであるなら、弘法大師がどうしてその禅師を推挙なさったであろうか。 慈覚大師は山上に禅堂を造って、禅法を興行された。智証大師の教相同異集にいう。日本には八宗がある。南京に六宗、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗である。北京に二宗、天台宗・真言宗である。倶舎・成実の二宗はみな小乗である。律宗は大乗にも小乗にも通じる。その他の五宗はみな大乗である。このほかに禅門宗があって、八宗に含まれない。山上の大師たちはみな相承された、と。顕教・密教の奥義を極められたことで、誰がこの四大師に勝ろうか。禅宗がもし思い込みの説であるなら、どうして顕教・密教のほかにまたこの一宗を崇められることがあろうか。安然和尚の教時諍論に、叡山が他の山に勝れていることを讃えていう。わが山には禅門・真言・天台の三宗を安置している。天竺・中国にもこのようなことはいまだなかった、と。 聖徳太子は南岳大師の再誕である。南岳大師は達磨の宗旨を相承された。その因縁によって、聖徳太子が仏法を興行されたとき、大和の片岡山に達磨大師が顕れた。太子は歌を詠んで贈られた。その歌にいう。しなてるや片岡山に飯に飢えて臥せる旅人あはれ親なし。大師の御返歌にいう。いかるがや富の小河の絶えばこそわが大君の御名を忘れめ。ほどなくして入滅の相を示された。太子は自ら諸臣とともに石を運び塚を築いて、大師の御棺を納められた。
解説

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『神皇正統記』巻四 第五十二代 嵯峨天皇心みに此鎰にてあけらるゝにとゞこほらず。一山こぞりて渇仰しけり。仍一宗の奥義のこる所なく伝られたりとぞ。其後慈覚・智証両大師又入唐して天台・真言をきはめならひて、叡山にひろめられしかば、彼門風いよいよさかりになりて天下に流布せり。唐国みだれしより経教おほくうせぬ。道邃より四代にあたれる義寂と云人まで、たゞ観心を伝へて宗義をあきらむることたえにけるにや。呉越国の忠懿王此宗のおとろへぬることをなげきて、使者十人をさして、我朝におくり、教典をもとめしむ。ことごとくうつしをはりてかへりぬ。義寂これを見あきらめて、更に此宗を再興す。もろこしには五代の中、後唐の末ざまなりければ、我朝には朱雀天皇の御代にやあたりけん。日本よりかへしわたしたる宗なれば、此国の天台宗はかへりて本となるなり。凡伝教彼宗の秘密を伝へられたることもことごとく一宗の論疏をうつし、国にかへれることも異朝の書にみえたり。弘法は母懐胎の始、夢に天竺の僧来りて宿をかり給けりとぞ。