孟子 / 滕文公章句上
陳良,楚產也;悅周公、仲尼之道,北學於中國,北方之學者,未能或之先也。彼所謂豪傑之士也。子之兄弟事之數十年,師死而遂倍之。昔者孔子沒,三年之外,門人治任將歸,入揖於子貢,相向而哭,皆失聲,然後歸。子貢反,筑室於場,獨居三年,然後歸。他日子夏、子張、子游以有若似聖人,欲以所事孔子事之,強曾子。曾子曰:『不可,江漢以濯之,秋陽以暴之,皜皜乎不可尚已。』今也南蠻鴃舌之人,非先王之道,子倍子之師而學之,亦異於曾子矣。吾聞出於幽谷、遷于喬木者,未聞下喬木而入於幽谷者。魯頌曰:『戎狄是膺,荊舒是懲。』周公方且膺之,子是之學,亦為不善變矣。」「從許子之道,則市賈不貳,國中無偽;雖使五尺之童適市,莫之或欺。布帛長短同,則賈相若;麻縷絲絮輕重同,則賈相若;五穀多寡同,則賈相若;屨大小同,則賈相若。」曰:「夫物之不齊,物之情也。或相倍蓰,或相什百,或相千萬;子比而同之,是亂天下也。巨屨小屨同賈,人豈為之哉?從許子之道,相率而為偽者也,惡能治國家?」
新字:陳良,楚産也;悦周公、仲尼之道,北学於中国,北方之学者,未能或之先也。彼所謂豪傑之士也。子之兄弟事之数十年,師死而遂倍之。昔者孔子没,三年之外,門人治任将帰,入揖於子貢,相向而哭,皆失声,然後帰。子貢反,筑室於場,独居三年,然後帰。他日子夏、子張、子游以有若似聖人,欲以所事孔子事之,強曽子。曽子曰:『不可,江漢以濯之,秋陽以暴之,皜皜乎不可尚已。』今也南蠻鴃舌之人,非先王之道,子倍子之師而学之,亦異於曽子矣。吾聞出於幽谷、遷于喬木者,未聞下喬木而入於幽谷者。魯頌曰:『戎狄是膺,荊舒是懲。』周公方且膺之,子是之学,亦為不善変矣。」「従許子之道,則市賈不貳,国中無偽;雖使五尺之童適市,莫之或欺。布帛長短同,則賈相若;麻縷糸絮軽重同,則賈相若;五穀多寡同,則賈相若;屨大小同,則賈相若。」曰:「夫物之不斉,物之情也。或相倍蓰,或相什百,或相千万;子比而同之,是乱天下也。巨屨小屨同賈,人豈為之哉?従許子之道,相率而為偽者也,悪能治国家?」
書き下し
陳良は、楚の産なり。周公・仲尼の道を悦び、北のかた中国に学ぶ。北方の学者も、未だ能く之に先んずる或る莫きなり。彼は所謂豪傑の士なり。子の兄弟之に事ふること数十年、師死して遂に之に倍く。昔者孔子没し、三年の外、門人任を治めて将に帰らんとし、入りて子貢に揖し、相向かひて哭し、皆声を失ひ、然る後に帰る。子貢反り、室を場に築き、独り居ること三年、然る後に帰る。他日子夏・子張・子游、有若の聖人に似たるを以て、孔子に事ふる所を以て之に事へんと欲し、曾子に強ふ。曾子曰く、『不可なり。江漢以て之を濯ひ、秋陽以て之を暴す。皜皜乎として尚ふ可からざるのみ』と。今や南蛮鴃舌の人、先王の道を非る。子子の師に倍きて之に学ぶ、亦た曾子に異なれり。吾幽谷より出でて喬木に遷る者を聞くも、未だ喬木を下りて幽谷に入る者を聞かず。魯頌に曰く、『戎狄是れ膺ち、荊舒是れ懲らす』と。周公すら方に且つ之を膺つ。子是れ之に学ぶ、亦た善く変ずと為さず。」「許子の道に従へば、則ち市賈弐ならず、国中偽り無し。五尺の童をして市に適かしむと雖も、之を或いは欺く莫し。布帛の長短同じければ、則ち賈相若く。麻縷絲絮の軽重同じければ、則ち賈相若く。五穀の多寡同じければ、則ち賈相若く。屨の大小同じければ、則ち賈相若し。」曰く、「夫れ物の斉しからざるは、物の情なり。或いは相倍蓰し、或いは相什百し、或いは相千万す。子比べて之を同じくするは、是れ天下を乱すなり。巨屨小屨賈を同じくせば、人豈に之を為らんや。許子の道に従ふは、相率ゐて偽りを為す者なり。悪くんぞ能く国家を治めん。」
現代語訳
陳良は楚の生まれである。周公や仲尼(孔子)の道を慕い、北の中原へ出て学んだ。北方の学者でも、彼の上に立つ者はいなかった。彼こそいわゆる豪傑の士である。あなたがた兄弟は数十年も彼に師事しながら、師が亡くなるとすぐに背いてしまった。昔、孔子が亡くなったとき、門人たちは三年の喪を終えると、荷物をまとめて帰ろうとし、子貢のところへ行って挨拶をし、向かい合って泣き、みな声をからしてから帰っていった。子貢は墓所に戻り、墓のそばに小屋を建て、ひとりでさらに三年暮らしてから帰った。後日、子夏・子張・子游(いずれも孔子の弟子)は、有若(ゆうじゃく、孔子の弟子)が聖人に似ているというので、孔子に仕えたのと同じように彼に仕えようとし、曾子にも同意を迫った。曾子は言った。『それはいけない。長江や漢水の水で洗い、秋の日差しでさらしたように、先生は真っ白に輝いていて、これ以上のものはない』と。ところが今、南方の蛮族のもずの鳴くような言葉を話す者(許行)が、先王の道を非難している。あなたは自分の師に背いてその者に学んでいる。曾子とはまったく違う。私は、鳥が暗い谷から出て高い木に移るとは聞いているが、高い木から下りて暗い谷に入るとはまだ聞いたことがない。『詩経』の魯頌に『西戎と北狄を撃ち、荊(楚)と舒を懲らしめる』とある。周公でさえ楚を撃とうとしたのに、あなたはその楚の者に学んでいる。これはよい方向に変わったとは言えない。」陳相は言った。「許先生の道に従えば、市場の値段は二通りにならず、国中に偽りがなくなる。五尺ほどの子どもを市場にやっても、誰もだまさない。布や絹は長さが同じなら値段も同じ。麻糸や生糸や綿は重さが同じなら値段も同じ。五穀は量が同じなら値段も同じ。履物は大きさが同じなら値段も同じになる。」孟子は言った。「そもそも物がそろわないのは、物の本来のありさまである。あるものは二倍五倍、あるものは十倍百倍、あるものは千倍万倍も違う。あなたがそれを並べて同じにしてしまうのは、天下を乱すことである。粗雑な履物と精巧な履物が同じ値段なら、誰がわざわざ精巧なものを作ろうか。許先生の道に従えば、互いに連れ立って偽物を作ることになる。どうして国家を治められようか。」
解説
関連する章句
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孟子・滕文公章句上神農の言を為す者許行有り。楚より滕に之き、門に踵りて文公に告げて曰く、「遠方の人、君の仁政を行ふを聞く。願はくは一廛を受けて氓と為らん。」文公之に処を与ふ。其の徒数十人、皆褐を衣、屨を捆ち、席を織りて以て食を為す。陳良の徒陳相と其の弟辛と、耒耜を負ひて宋より滕に之く。曰く、「君聖人の政を行ふと聞く。是れ亦た聖人なり。願はくは聖人の氓と為らん。」陳相許行を見て大いに悦び、尽く其の学を棄てて焉に学ぶ。陳相孟子に見え、許行の言を道ひて曰く、「滕君は則ち誠に賢君なり。然りと雖も、未だ道を聞かざるなり。賢者は民と并び耕して食ひ、饔飧して治む。今や滕に倉廩府庫有り、則ち是れ民を厲まして以て自ら養ふなり。悪くんぞ賢なるを得ん。」孟子曰く、「許子は必ず粟を種ゑて而る後に食ふか。」曰く、「然り。」「許子は必ず布を織りて而る後に衣るか。」曰く、「否。許子は褐を衣る。」「許子は冠するか。」曰く、「冠す。」曰く、「奚をか冠する。」曰く、「素を冠す。」曰く、「自ら之を織るか。」曰く、「否。粟を以て之に易ふ。」曰く、「許子奚為れぞ自ら織らざる。」曰く、「耕すに害あればなり。」曰く、「許子は釜甑を以て爨ぎ、鉄を以て耕すか。」曰く、「然り。」「自ら之を為るか。」曰く、「否。粟を以て之に易ふ。」「粟を以て械器に易ふる者は、陶冶を厲ますと為さず。陶冶も亦た其の械器を以て粟に易ふる者、豈に農夫を厲ますと為さんや。且つ許子何ぞ陶冶を為し、舎皆諸を其の宮中に取りて之を用ひざる。何為れぞ紛紛然として百工と交易する。何ぞ許子の煩はしきを憚らざる。」曰く、「百工の事は、固より耕し且つ為す可からざるなり。」「然らば則ち天下を治むるは独り耕し且つ為す可けんや。大人の事有り、小人の事有り。且つ一人の身にして、百工の為す所備はる。如し必ず自ら為りて而る後に之を用ひば、是れ天下を率ゐて路せしむるなり。故に曰く、或いは心を労し、或いは力を労す。心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治めらる。
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孟子・滕文公章句下匡章曰く、「陳仲子は、豈に誠の廉士ならずや。於陵に居り、三日食わず、耳は聞ゆる無く、目は見ゆる無きなり。井上に李有り。螬(ソウ)、實を食らう者半ばに過ぎたり。匍匐して往き、將(とる)りて之を食う。三咽して、然る後に耳聞ゆる有り、目見ゆる有り。」孟子曰く、「齊國の士に於いて、吾必ず仲子を以て巨擘(ハク)と為さん。然りと雖も、仲子惡くんぞ能く廉ならん。仲子の操を充てば、則ち蚓にして而る後可なる者なり。夫れ蚓は、上、槁壤を食い、下、黄泉を飲む。仲子居る所の室は、伯夷の築ける所か、抑々亦た盜跖の築ける所か。食う所の粟は、伯夷の樹えし所か、抑々亦た盜跖の樹えし所か。是れ未だ知る可からざるなり。」曰く、「是れ何ぞ傷まん。彼は身、屨を織り、妻は辟纑して、以て之に易うるなり。」曰く、「仲子は、齊の世家なり。兄の戴が蓋の祿萬鍾あり。兄の祿を以て不義の祿と為して食らわざるなり。兄の室を以て不義の室と為して居らざるなり。兄を辟け母を離れて、於陵に處る。他日歸れば、則ち其の兄に生鵝を饋る者有り。己頻顣(ヒン・シュク)して曰く、『惡ぞ是の鶃鶃の者を用て為さんや。』他日、其の母、是の鵝を殺すや、之に與えて之に食らわしむ。其の兄外自り至りて曰く、『是れ鶃鶃の肉なり。』出でて之を哇く。母を以てすれば則ち食わず、妻を以てすれば則ち之を食う。兄の室を以てすれば則ち居らず、於陵を以てすれば則ち之に居る。是れ尚ほ能く其の類を充すと為さんや。仲子の若き者は、蚓にして、而る後其の操を充たす者なり。」
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孟子・公孫丑章句上公孫丑問いて曰く、「夫子、齊の卿相に加わり、道を行うことを得ば、此に由りて霸王たらしむと雖も異(あやしむ)まず。此の如くんば、則ち心を動かすや否や。」孟子曰く、「否。我四十にして心を動かさず。」曰く、「是の若くんば、則ち夫子、孟賁に過ぐること遠し。」曰く、「是れ難からず。告子(人名)は我に先だちて心を動かさず。」曰く、「心を動かさざるに、道有りや。」曰く、「有り。北宮黝(ユウ)の勇を養うや、膚橈(フ・トウ)せず、目逃せず。一豪を以て人に挫(はずかしめらる)めらるるを思うこと、之を市朝に撻(むちうつ)たるるが若し。褐寬博にも受けず、亦た萬乘の君にも受けず。萬乘の君を刺すを視ること、褐夫を刺すが若し。嚴(はばかる)る諸侯無し。惡聲至れば、必ず之を反す。孟施舍の勇を養う所や、曰く、『勝たざるを視ること猶ほ勝つがごとし。敵を量りて而る後進み、勝を慮って而る後會す。是れ三軍を畏るる者なり。舍豈に能く必勝を為さんや。能く懼るる無きのみ。』孟施舍は曾子に似たり。北宮黝は子夏に似たり。夫の二子の勇、未だ其の孰れか賢れるを知らず。然り而して孟施舍は守り約なり。昔者、曾子、子襄に謂いて曰く、『子、勇を好むか。吾嘗て大勇を夫子に聞けり。自ら反して縮からずんば、褐寬博と雖も、吾惴れざらんや。自ら反して縮くんば、千萬人と雖も、吾往かん。』孟施舍の氣を守るは、又曾子の守の約なるに如かざるなり。」曰く、「敢て問う、夫子の心を動かさざると、告子の心を動かさざると、聞くことを得可きか。」「告子は曰く、『言に得ざれば、心に求むること勿かれ。心に得ざれば、氣に求むること勿れ。』心に得ざれば、氣に求むること勿れとは、可なり。言に得ざれば、心に求むること勿かれとは、不可なり。夫れ志は氣の帥なり。氣は體の充てるなり。夫れ志至り、氣は次ぐ。故に曰く、『其の志を持し、其の氣を暴すること無かれ。』」「既に、志至り、氣は次ぐと曰い、又、其の志を持し、其の氣を暴すること無かれと曰うは、何ぞや。」曰く、「志壹なれば則ち氣を動かし、氣壹なれば則ち志を動かせばなり。今、夫れ蹶く者の趨るは、是れ氣なり。而るに反って其の心を動かす。」「敢て問う、夫子惡にか長ぜる。」曰く、「我、言を知る。我善く吾が浩然の氣を養う。」「敢て問う、何をか浩然の氣と謂う。」曰く、「言い難きなり。其の氣為るや、至大至剛以て直、養いて害すること無ければ、則ち天地の閒に塞がる。其の氣為るや、義と道とに配す。是れ無ければ餒うるなり。是れ集義の生ずる所の者にして、義襲うて之を取るに非ざるなり。行い心に慊からざること有れば、則ち餒う。我故に曰く、『告子は未だ嘗て義を知らず』と。其の之を外にするを以てなり。必ず事とする有れ。正(あらかじめ)めすること勿れ。心に忘るること勿れ。助けて長ぜしむること勿れ。宋人の若く然すること無かれ。宋人に其の苗の長ぜざるを閔えて、之を揠く者有り、芒芒然として歸り、其の人に謂いて曰く、『今日病れたり。予、苗を助けて長ぜしむ。』其の子趨りて往きて之を視れば、苗は則ち槁れたり。天下の苗を助けて長ぜしめざる者は寡し。以て益無しと為して之を舍つる者は、苗を耘らざる者なり。之を助けて長ぜしむる者は、苗を揠く者なり。徒に益無きのみに非ず、而して又之を害す。」「何をか言を知ると謂う。」曰く、「詖辭は其の蔽わるる所を知る。淫辭は其の陷る所を知る。邪辭は其の離るる所を知る。遁辭は其の窮する所を知る。其の心に生ずれば、其の政を害し、其の政に發すれば、其の事を害す。聖人復た起こるとも、必ず吾が言に從わん。」「宰我・子貢は善くᗑ辭を為し、冉牛・閔子・顏淵は善く德行を言う。孔子は之を兼ね。曰く、『我、辭命に於いては、則ち能わざるなり。』然らば則ち夫子は既に聖なるか。」曰く、「惡(ああ)、是れ何の言ぞや。昔者、子貢、孔子に問いて曰く、『夫子は聖なるか。』孔子曰く、『聖は則ち吾能わず。我、學びて厭わず、教えて倦まざるなり。』子貢曰く、『學びて厭わざるは、智なり。教えて倦まざるは、仁なり。仁且つ智なり。夫子既に聖ならん。』夫れ聖は、孔子も居らず。是れ何の言ぞや。」「昔者、竊かに之を聞けり。子夏・子游・子張は、皆聖人の一體有り、冉牛・閔子・顏淵は、則ち體を具えて微なり、と。敢て安んずる所を問う。」曰く、「姑く是を舍け。」曰く、「伯夷・伊尹は何如。」曰く、「道を同じうせず。其の君に非ざれば事えず、其の民に非ざれば使わず。治まれば則ち進み、亂るれば則ち退くは、伯夷なり。何れに事うるも君に非ざらん、何れを使うも民に非ざらん。治まるも亦た進み、亂るるも亦た進むは、伊尹なり。以て仕う可くんば則ち仕え、以て止む可けんば則ち止め、以て久しかる可けんば則ち久しうし、以て速やかなる可けんば則ち速やかにするは、孔子なり。皆古の聖人なり。吾は未だ行うこと有る能わず。乃ち願う所は、則ち孔子を學ばん。」「伯夷・伊尹の孔子に於けるは、是の若く班たるか。」曰く、「否。生民有りて自り以來、未だ孔子有らざるなり。」曰く、「然らば則ち同じき有るか。」曰く、「有り。百里の地を得て之に君たらば、皆能く以て諸侯を朝せしめ天下を有たん。一不義を行い、一不辜を殺して天下を得るは、皆為さざるなり。是れ則ち同じ。」曰く、「敢て其の異なる所以を問う。」曰く、「宰我・子貢・有若は、智は以て聖人を知るに足る。汙なるも其の好む所に阿るに至らず。宰我曰く、『予を以て夫子を觀れば、堯舜に賢ること遠し。』子貢曰く、『其の禮を見て、而して其の政を知り、其の樂を聞きて、而して其の德を知る。百世の後由り、百世の王を等するに、之に能く違うこと莫きなり。生民自り以來、未だ夫子有らざるなり。』有若曰く、『豈に惟だ民のみならんや。麒麟の走獸に於ける、鳳凰の飛鳥に於ける、太山の丘垤に於ける、河海の行潦に於けるは、類なり。聖人の民に於けるも、亦た類なり。其の類より出でて、其の萃に抜く。生民自り以來、未だ孔子より盛なるは有らざるなり。』」
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孟子・滕文公章句下陳代曰く、「諸侯を見ざるは、宜(ほとんど)ど小なるが若く然り。今、一たび之を見ば、大は則ち以て王たらしめ、小は則ち以て霸たらしめん。且つ志に曰く、『尺を枉げて尋を直くす。』宜ど為す可きが若し。」孟子曰く、「昔、齊の景公田す。虞人を招くに旌を以てす。至らず。將に之を殺さんとす。『志士は溝壑に在るを忘れず、勇士は其の元を喪うを忘れず。』孔子奚をか取れる。其の招きに非ざれば往かざるを取れるなり。其の招きを待たずして往くが如きは何ぞや。且つ夫れ尺を枉げて尋を直くすとは、利を以て言うなり。如し利を以てせば、則ち尋を枉げ尺を直くして利あらば、亦た為す可きか。昔者、趙簡子、王良をして嬖奚と乘らしむ。終日にして一禽をも獲ず。嬖奚反命して曰く、『天下の賤工なり。』或ひと以て王良に告ぐ。良曰く、『請う之を復びせん。』彊いて後に可く。一朝にして十禽を獲たり。嬖奚反命して曰く、『天下の良工なり。』簡子曰く、『我、女と乘ることを掌らしめん。』王良に謂う。良可かず。曰く、『吾、之が為に我が馳驅を範すれば、終日一をも獲ず。之が為に詭遇すれば、一朝にして十を獲たり。詩に云う、其の馳することを失わざれば、矢を舍ちて破るが如し、と。我、小人と乘ることを貫わず。請う辭せん。』御者すら且つ射る者と比するを羞づ。比して禽獸を獲ること丘陵の若しと雖も、為さざるなり。道を枉げて彼に從うが如きは何ぞや。且つ子過てり。己を枉ぐる者は、未だ能く人を直くする者有らざるなり。」
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孟子・滕文公章句上滕の定公薨ず。世子然友に謂ひて曰く、「昔者孟子嘗て我と宋に言ふ。心に於て終に忘れず。今や不幸にして大故に至る。吾子をして孟子に問はしめ、然る後に事を行はんと欲す。」然友鄒に之きて孟子に問ふ。孟子曰く、「亦た善からずや。親の喪は固より自ら尽くす所なり。曾子曰く、『生けるには、之に事ふるに礼を以てし、死すれば、之を葬るに礼を以てし、之を祭るに礼を以てす、孝と謂ふ可し』と。諸侯の礼は、吾未だ之を学ばざるなり。然りと雖も、吾嘗て之を聞けり。三年の喪、斉疏の服、飦粥の食は、天子より庶人に達し、三代之を共にす。」然友反りて命ず。三年の喪を為すことを定む。父兄百官皆欲せざるなり。故に曰く、「吾が宗国魯の先君も之を行ふ莫く、吾が先君も亦た之を行ふ莫きなり。子の身に至りて之に反するは、不可なり。且つ志に曰く、『喪祭は先祖に従ふ』と。」曰く、「吾之を受くる所有るなり。」然友に謂ひて曰く、「吾他日未だ嘗て学問せず、好んで馬を馳せ剣を試みる。今や父兄百官我を足れりとせざるなり。恐らくは其れ大事に尽くすこと能はざらん。子我が為に孟子に問へ。」然友復た鄒に之きて孟子に問ふ。孟子曰く、「然り。以て他に求む可からざる者なり。孔子曰く、『君薨ずれば、冢宰に聴き、飦粥し、面深墨にして、位に即きて哭す。百官有司、敢へて哀しまざる莫きは、之に先んずればなり。上に好む者有れば、下必ず焉より甚だしき者有り。君子の徳は、風なり。小人の徳は、草なり。草之に風を上ふれば必ず偃す』と。是れ世子に在り。」然友反りて命ず。世子曰く、「然り。是れ誠に我に在り。」五月廬に居り、未だ命戒有らず。百官族人、可として謂ひて知れりと曰ふ。葬に至るに及びて、四方より来たりて之を観る。顔色の戚、哭泣の哀、弔する者大いに悦ぶ。
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史記 仲尼弟子列伝有若曰く、「礼の用は、和を貴しと為す、先王の道も斯を美と為す。小大之に由れば、行はれざる所有り。和を知りて和すれども、礼を以て之を節せざれば、亦行はるべからざるなり」と。「信義に近ければ、言復むべきなり。恭礼に近ければ、恥辱に遠ざかるなり。因ること其の親を失はざれば、亦宗とすべきなり」と。孔子既に没し、弟子思慕し、有若の状孔子に似たれば、弟子相与に共に立てて師と為し、之に師事すること夫子の時の如くす。他日、弟子進みて問ひて曰く、「昔夫子当に行かんとするに、弟子をして雨具を持たしむ、已にして果たして雨ふる。弟子問ひて曰く、『夫子何を以て之を知る』と。夫子曰く、『詩に云はずや、「月畢に離れば、滂沱たらしむ」と。昨暮月畢に宿らざりしか』と。他日、月畢に宿るも、竟に雨ふらず。商瞿年長じて子無し、其の母為に室を取らんとす。孔子之をして斉に使ひせしめんとす、瞿の母之を請ふ。孔子曰く、『憂ふること無かれ、瞿年四十の後当に五丈夫子有るべし』と。已にして果たして然り。問ふ夫子何を以て此を知りしか」と。有若黙然として以て応ふる無し。弟子起ちて曰く、「有子之を避けよ、此れ子の座に非ざるなり」と。公西赤、字は子華。孔子より少きこと四十二歳。子華斉に使ひす、冉有其の母の為に粟を請ふ。孔子曰く、「之に釜を与へよ」と。益を請ふ、曰く、「之に庾を与へよ」と。冉子之に粟五秉を与ふ。孔子曰く、「赤の斉に適くや、肥馬に乗り、軽裘を衣る。吾聞く君子は急を周ひて富を継がずと」と。巫馬施、字は子旗。孔子より少きこと三十歳。陳の司敗孔子に問ひて曰く、「魯の昭公は礼を知るか」と。孔子曰く、「礼を知る」と。退きて巫馬旗に揖して曰く、「吾聞く君子は党せずと、君子も亦党するか。魯君呉の女を娶りて夫人と為し、之に命じて孟子と為す。孟子の姓は姫なり、同姓と称するを諱む、故に之を孟子と謂ふ。魯君にして礼を知らば、孰か礼を知らざらん」と。施以て孔子に告ぐ、孔子曰く、「丘や幸ひなり、苟も過ち有れば、人必ず之を知る。
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