宋名臣言行録 / 後集巻十二・劉安世
自崇慶埀簾復祖宗舊政溫公既薨之後荆公之徒多為飛語以動摇在位誘之以利脅之以禍無所不至大臣多首鼠兩端為自全計吕范二相尤畏之欲用其黨以平舊怨謂之調停
新字:自崇慶埀簾復祖宗旧政温公既薨之後荆公之徒多為飛語以動摇在位誘之以利脅之以禍無所不至大臣多首鼠両端為自全計呂范二相尤畏之欲用其党以平旧怨謂之調停
書き下し
崇慶簾を垂れ、祖宗の舊政に復してより、温公既に薨ずるの後、荊公の徒多く飛語を爲して以て在位を動搖す。之を誘うに利を以てし、之を脅すに禍を以てし、至らざる所無し。大臣多く首鼠兩端、自全の計を爲す。呂・范の二相尤も之を畏れ、其の黨を用いて以て舊怨を平らげんと欲す。之を調停と謂う。
現代語訳
宣仁太后が簾を垂れて政を執り、祖宗の旧い政に復してから、司馬光が没した後、王安石の一派の者たちは多く飛び交う噂をこしらえて、地位にある者たちを動揺させた。利をもって誘い、禍をもって脅し、やらないことがなかった。大臣たちの多くは鼠のようにどちらにも顔を向け、自分の身を全うする計を立てた。呂大防と范純仁の二人の宰相はとりわけこれを恐れ、その一派を登用することで古い恨みを鎮めようとした。これを「調停」といった。
解説
政権が代わった直後の空気が書かれています。前政権の側は、正面から戦っていません。**利をもって誘い、禍をもって脅し、やらないことがなかった。**それが効いて、幹部が動きます。**大臣たちの多くは鼠のようにどちらにも顔を向け、自分の身を全うする計を立てた。**そして宰相二人の出した答えが、和解でした。**その一派を登用することで古い恨みを鎮めようとした。これを「調停」といった。**穏当に見える言葉に名前が付いた場面です。
この章句が説くこと
荊公の徒多く飛語を為して以て在位を動揺す之を誘うに利を以てし之を脅すに禍を以てし至らざる所無し大臣多く首鼠両端自全の計を為す其の党を用いて以て旧怨を平らげんと欲す之を調停と謂う調停和解
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