宋名臣言行録 / 後集巻八・吕公著
宋興以来大臣以三公平章軍國者四人而公父子居其二時論榮之
新字:宋興以来大臣以三公平章軍国者四人而公父子居其二時論栄之
書き下し
宋興りてより以來、大臣にして三公を以て軍國を平章する者四人。而して公の父子其の二に居る。時論之を榮とす。
現代語訳
宋が興って以来、大臣で三公の位をもって軍と国の政を統べた者は四人である。そして公の父子がそのうちの二人を占めている。当時の議論はこれを栄誉とした。
解説
二十七字が、数だけで一つの家を言い当てています。**宋が興って以来、四人である。****そして公の父子がそのうちの二人を占めている。**呂夷簡と呂公著です。百数十年で四人しか出ない位の、半分が同じ家から出た。前の条でこの人の言葉の簡潔さが褒められ、この条では家の栄誉が数で書かれます。そして次の巻に入ると、その子の呂希哲が、父のせいで用いられなかったという話が来ます。
この章句が説くこと
宋興りてより以来大臣にして三公を以て軍国を平章する者四人而して公の父子其の二に居る時論之を栄とす家栄誉継承
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