呂氏春秋 / 無義④
趙急求李欬,李言續經與之俱如衛,抵公孫與,公孫與見而與入,續經因告衛吏使捕之,續經以仕趙五大夫。人莫與同朝,子孫不可以交友。
新字:趙急求李欬,李言続経与之倶如衛,抵公孫与,公孫与見而与入,続経因告衛吏使捕之,続経以仕趙五大夫。人莫与同朝,子孫不可以交友。
書き下し
趙、急に李欬を求む。李、續經に言いて、之と俱に衛に如き、公孫與に抵る。公孫與見て與に入る。續經因りて衛の吏に告げて之を捕えしむ。續經以て趙に仕えて五大夫たり。人與に朝を同じくする莫く、子孫以て交友す可からず。
現代語訳
趙が急いで李欬を捜し求めた。李欬は続経に相談し、続経とともに衛へ行って公孫与のもとに身を寄せた。公孫与は彼らに会って迎え入れた。ところが続経は衛の役人に密告して李欬を捕らえさせ、その功で趙に仕えて五大夫となった。しかし人々は誰も彼と朝廷を同じくしようとせず、その子孫も人と交友できないほど嫌われた。
解説
続経が、自分を頼ってきた李欬を密告して売り渡し、その功で趙の五大夫という地位を得た顛末を語る一段です。趙に追われた李欬は続経を頼り、ともに衛の公孫与のもとに身を寄せましたが、続経は保身と栄達のために李欬を役人に突き出しました。地位は得たものの、人々は誰も彼と同じ朝廷に立とうとせず、子孫まで交友を絶たれるほど蔑まれたといいます。戦国期は保身のための裏切りが横行しましたが、呂氏春秋はそうした不義が一時の栄達をもたらしても、末代までの不名誉を残すと戒めます。信頼を売って手にした地位は周囲の軽蔑を招き、家名にまで傷を残すという教えは、目先の利のために信義を捨てることの代償を鋭く突いています。
この章句が説くこと
続経李欬趙衛裏切り五大夫
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