宋名臣言行録 / 後集巻三・張方平
知秦州時亮祚方驕僣閲士馬築堡篳篥城之西壓秦境上屬户皆逃匿山林公即料簡將士聲言出塞實按軍不動賊既不至言者因論公無賊而輕舉宰相曽公亮曰兵不出塞何名為輕舉有備而賊不至則以輕舉罪之邉臣自是不敢為先事之備矣
新字:知秦州時亮祚方驕僣閲士馬築堡篳篥城之西圧秦境上属戸皆逃匿山林公即料簡将士声言出塞実按軍不動賊既不至言者因論公無賊而軽舉宰相曽公亮曰兵不出塞何名為軽舉有備而賊不至則以軽舉罪之邉臣自是不敢為先事之備矣
書き下し
秦州を知る時、亮祚方に驕僭なり。士馬を閲し堡を築く。篳篥城の西は秦の境を壓す。上屬戸皆山林に逃匿す。公即ち將士を料簡し、塞を出づと聲言して、實は軍を按じて動かず。賊既に至らず。言う者因りて公を賊無くして輕舉すと論ず。宰相曾公亮曰く、兵は塞を出でず。何ぞ輕舉と名づけんや。備え有りて賊至らざれば則ち輕舉を以て之を罪す。邊臣是れより敢えて事に先んずるの備えを爲さざらんと。
現代語訳
秦州の知事であったとき、亮祚はちょうど驕り高ぶっていた。兵と馬を閲し、砦を築いた。篳篥城の西は秦州の境を圧していた。管内の住民はみな山林に逃げ隠れた。張方平はすぐ将兵を選び整え、国境を出ると公言して、実際には軍を押さえて動かさなかった。敵は結局来なかった。論ずる者はそれによって、張方平を「敵がいないのに軽々しく動いた」と非難した。宰相の曾公亮は言った。「兵は国境を出ていない。どうして軽挙と呼べようか。備えがあって敵が来なかったのを、軽挙として罪に問うなら、国境の臣は今後、事が起こる前に備えることをしなくなる」。
解説
備えが効いて、何も起きなかった。そこが評価の一番難しいところです。敵は結局来なかった。すると、動いたこと自体が咎められました。敵がいないのに軽々しく動いた。曾公亮の反論は、目の前の一件ではなく、その先の話です。備えがあって敵が来なかったのを、軽挙として罪に問うなら、国境の臣は今後、事が起こる前に備えることをしなくなる。未然に防いだ働きは、防いだ証拠が残りません。それを罰すれば、次からは起きてから動くことになります。
この章句が説くこと
公即ち将士を料簡し塞を出づと声言して実は軍を按じて動かず言う者因りて公を賊無くして軽舉すと論ず備え有りて賊至らざれば則ち軽舉を以て之を罪す辺臣是れより敢えて事に先んずるの備えを為さざらん備え評価
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