宋名臣言行録 / 後集巻三・文彦博
元豐三年王堯臣子同老言至和三年仁宗不豫内外寒心先臣叅預朝政與文富請立英宗為嗣大計遂定㑹公來自北都過闗入覲神宗以問公對曰自至和以來中外之臣乞立皇嗣者甚衆臣等雖有請事未果行至嘉祐末琦等卒就大事蓋琦等功也於是手詔中書曰彦博蓄徳深厚善不自伐懐此大功絶口不言中外搢紳莫有知者今縁故臣子明其父勲始得本末乃知援立之功厥有攸在遂加公河東永興節度使公復力辭宴餞瓊林輔臣皆預兩遣中謁者遺詩以寵其行有報在不言之語當世榮之
新字:元豊三年王堯臣子同老言至和三年仁宗不予内外寒心先臣叅預朝政与文富請立英宗為嗣大計遂定会公来自北都過関入覲神宗以問公対曰自至和以来中外之臣乞立皇嗣者甚衆臣等雖有請事未果行至嘉祐末琦等卒就大事蓋琦等功也於是手詔中書曰彦博蓄徳深厚善不自伐懐此大功絶口不言中外搢紳莫有知者今縁故臣子明其父勲始得本末乃知援立之功厥有攸在遂加公河東永興節度使公復力辞宴餞瓊林輔臣皆預両遣中謁者遺詩以寵其行有報在不言之語当世栄之
書き下し
元豐三年、王堯臣の子同老言う、至和三年仁宗豫ならず、内外寒心す。先臣朝政に參預し、文・富と英宗を立てて嗣と爲さんことを請う。大計遂に定まると。會ミ公北都より來たり、關を過ぎて入覲す。神宗以て公に問う。對えて曰く、至和以來、中外の臣の皇嗣を立てんことを乞う者甚だ衆し。臣等請う有りと雖も、事未だ果たして行われず。嘉祐の末に至りて琦等卒に大事に就く。蓋し琦等の功なりと。是に於いて中書に手詔して曰く、彦博は德を蓄うること深厚、善にして自ら伐らず。此の大功を懷きて絶口して言わず。中外の搢紳、知る有る者莫し。今、故臣の子の其の父の勳を明らかにするに縁りて、始めて本末を得たり。乃ち援立の功、厥れ攸る有るを知ると。遂に公に河東・永興節度使を加う。公復た力めて辭す。瓊林に宴餞し、輔臣皆預る。兩たび中謁者を遣わして詩を遺り、以て其の行を寵む。報は言わざるに在るの語有り。當世之を榮とす。
現代語訳
元豊三年、王堯臣の子の同老が言った。「至和三年、仁宗が病んで、内外は肝を冷やしました。亡き父は朝政に加わり、文彦博・富弼とともに英宗を後嗣に立てることを願い出ました。大計はそれで定まりました」。ちょうど文彦博が北都から来て、関を過ぎて拝謁した。神宗はこの件を文彦博に問うた。答えて言った。「至和以来、内外の臣で皇嗣を立てるよう願った者はきわめて多くございます。臣らも願い出はしましたが、事は実現しませんでした。嘉祐の末に至って、韓琦らがついに大事を成し遂げました。思うに韓琦らの功です」。そこで中書に直筆の詔を下して言った。「彦博は徳を蓄えること深く厚く、善を行っても自ら誇らない。この大きな功を胸に抱いて、口を閉ざして語らなかった。内外の官人で知る者はなかった。いま亡き臣の子がその父の功を明らかにしたことによって、はじめて事の始終が分かった。そこで擁立の功が、どこにあったかを知った」。ついに文彦博に河東・永興節度使を加えた。文彦博はまた力を尽くして辞退した。瓊林で送別の宴を張り、輔佐の臣がみな加わった。二度にわたって使者を遣わして詩を贈り、その旅立ちを飾った。「報いは、言わなかったことにある」という言葉があった。当世はこれを栄誉とした。
解説
この章句が説くこと
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