宋名臣言行録 / 後集巻二・歐陽修
公父鄭公嘗有遺訓戒慎用刑公母韓國夫人以語公公終身行之以謂漢法惟殺人者死今法多雜犯死罪故死罪非殺人者多所平反盖鄭公意也
新字:公父鄭公嘗有遺訓戒慎用刑公母韓国夫人以語公公終身行之以謂漢法惟殺人者死今法多雑犯死罪故死罪非殺人者多所平反盖鄭公意也
書き下し
公の父鄭公、嘗て遺訓有り、刑を用うるを戒慎せよと。公の母韓國夫人、以て公に語る。公終身之を行う。以謂えらく、漢法は惟だ人を殺す者のみ死す。今の法は多く雜犯の死罪なりと。故に死罪の人を殺す者に非ざる者は、平反する所多し。蓋し鄭公の意なり。
現代語訳
欧陽脩の父の鄭公には、かつて遺した戒めがあった。刑を用いるのに慎めというものである。欧陽脩の母の韓国夫人が、それを欧陽脩に語った。欧陽脩は生涯これを守り行った。こう考えた。「漢の法では、ただ人を殺した者だけが死罪であった。いまの法では、さまざまな犯罪が死罪になっている」。それゆえ、死罪でありながら人を殺していない者については、多くを審理し直して減刑した。思うに、鄭公の意図であった。
解説
四歳で父を失った人が、父の遺した言葉を守っています。伝えたのは母でした。**父の鄭公には、かつて遺した戒めがあった。刑を用いるのに慎めというものである。母の韓国夫人が、それを欧陽脩に語った。**そして守り方が、心構えで終わっていません。基準を一つ立てました。**漢の法では、ただ人を殺した者だけが死罪であった。いまの法では、さまざまな犯罪が死罪になっている。**そのうえで、その差にあたる事件を洗い直しています。**死罪でありながら人を殺していない者については、多くを審理し直して減刑した。**
この章句が説くこと
公の父鄭公嘗て遺訓有り刑を用うるを戒慎せよ公の母韓国夫人以て公に語る公終身之を行う漢法は惟だ人を殺す者のみ死す今の法は多く雑犯の死罪なり死罪の人を殺す者に非ざる者は平反する所多し遺訓刑罰
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