宋名臣言行録 / 後集巻二・歐陽修
先是之竒盛稱濮議之是以媚脩由是薦為御史既而反攻脩脩尋亦外遷故其謝上表曰未乾薦禰之墨已關射羿之弓
新字:先是之奇盛称濮議之是以媚脩由是薦為御史既而反攻脩脩尋亦外遷故其謝上表曰未乾薦祢之墨已関射羿之弓
書き下し
是より先、之奇盛んに濮議の是を稱して以て脩に媚ぶ。是に由りて薦めて御史と爲す。既にして反って脩を攻む。脩尋いで亦た外に遷る。故に其の謝上表に曰く、未だ禰を薦むるの墨乾かざるに、已に羿を射るの弓に關わると。
現代語訳
これより先、蔣之奇はさかんに濮議の正しさを称えて欧陽脩に取り入っていた。それによって推薦されて御史となった。ところが後には逆に欧陽脩を攻撃した。欧陽脩はほどなく地方に転じた。それゆえ、その謝罪の上表にこう書いた。「禰衡を薦めた墨がまだ乾かぬうちに、もう羿を射た弓に関わることになった」。
解説
自分が推薦した相手に弾劾された、という一件です。恨み言を並べていません。二つの故事を重ねた一句に畳んでいます。禰衡を薦めた墨がまだ乾かぬうちに、もう羿を射た弓に関わることになった。孔融が禰衡を薦めた「薦禰衡表」の墨。そして弓の名手の羿が、教えた弟子の逢蒙に射られた話。推薦の墨と、弟子の弓が、同じ一文に並びます。取り入られていた時点の記述も残酷でした。さかんに濮議の正しさを称えて欧陽脩に取り入っていた。同意してくる人ほど、後で向きを変えます。
この章句が説くこと
之奇盛んに濮議の是を称して以て脩に媚ぶ是に由りて薦めて御史と為す既にして反って脩を攻む未だ祢を薦むるの墨乾かざるに已に羿を射るの弓に関わる推薦裏切り
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