宋名臣言行録 / 後集巻二・歐陽修
自議皇子事凡所奏請皆余與西㕔趙侍郎自書其改名劄子余所書也所擇日旁七字其最下一字乃今名也是上親㸃今封在中書今上一自在濮邸即有賢名及遷入内良賤不及三十口行李蕭然無異寒士有書數厨而巳中外聞者相賀
新字:自議皇子事凡所奏請皆余与西㕔趙侍郎自書其改名劄子余所書也所択日旁七字其最下一字乃今名也是上親㸃今封在中書今上一自在濮邸即有賢名及遷入内良賤不及三十口行李蕭然無異寒士有書数厨而巳中外聞者相賀
書き下し
皇子の事を議してより、凡そ奏請する所は皆余と西廳趙侍郎とが自ら書す。其の改名の劄子は余の書く所なり。擇ぶ所の日の旁の七字、其の最下の一字は乃ち今の名なり。是れ上親しく點ず。今封じて中書に在り。今上一たび濮邸に在るより即ち賢名有り。内に遷り入るに及び、良賤三十口に及ばず、行李蕭然として寒士に異なる無く、書數厨有るのみ。中外の聞く者相い賀す。
現代語訳
皇子の件を議して以来、およそ奏請したものはみな私と西庁の趙侍郎とが自分で書いた。その改名の書付は私が書いたものである。選んだ日の脇に記した七つの字のうち、その一番下の一字が、いまの御名である。これは天子が自ら点を付けられた。いまは封じて中書に保管してある。今上は濮王の邸におられたときから賢いという評判があった。宮中に移り入られるにあたり、身分の上下を合わせて三十人に満たず、荷物はさっぱりとして貧しい書生と変わらず、書物が数棚あるだけであった。内外でこれを聞いた者は互いに祝い合った。
解説
国家の一大事の記録が、最後は事務と引っ越しの描写で閉じられます。まず書類の扱いです。**およそ奏請したものはみな私と趙侍郎とが自分で書いた。**書記を使わず、二人で書き取った。機密の保ち方が具体的です。**選んだ日の脇に記した七つの字のうち、一番下の一字が、いまの御名である。**候補を並べた紙が現物として残っている。そして人物の評価が、持ち物で示されます。**荷物はさっぱりとして貧しい書生と変わらず、書物が数棚あるだけであった。**
この章句が説くこと
凡そ奏請する所は皆余と西庁趙侍郎とが自ら書す択ぶ所の日の旁の七字其の最下の一字は乃ち今の名なり良賤三十口に及ばず行李蕭然として寒士に異なる無く書数厨有るのみ中外の聞く者相い賀す記録簡素
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