宋名臣言行録 / 後集巻二・富弼
公遂與仲淹各上當世之務十餘條又自上河北安邉十三䇿大畧以進賢退不肖止僥倖去宿弊為本欲稍易諸路監司之不才者使澄汰所部吏於是小人始不恱矣
新字:公遂与仲淹各上当世之務十余条又自上河北安邉十三策大略以進賢退不肖止僥倖去宿弊為本欲稍易諸路監司之不才者使澄汰所部吏於是小人始不恱矣
書き下し
公遂に仲淹と各ミ當世の務め十餘條を上る。又た自ら河北安邊十三策を上る。大略は賢を進め不肖を退け、僥倖を止め宿弊を去るを以て本と爲す。稍ミ諸路の監司の不才なる者を易えて、所部の吏を澄汰せしめんと欲す。是に於いて小人始めて悅ばず。
現代語訳
富弼はついに范仲淹とそれぞれ、当世の急務十余か条を上った。また自ら河北安辺十三策を上った。大筋は、賢者を進め不才の者を退け、僥倖を止め、積年の弊を去ることを根本としていた。少しずつ諸路の監司のうち才のない者を入れ替え、その管轄下の役人を洗い直させようとした。ここにおいて、小人がはじめて面白くなくなった。
解説
新政が敵を作った瞬間が、はっきり書き留められています。方針そのものは誰も表立って反対できません。賢者を進め不才の者を退け、僥倖を止め、積年の弊を去る。火がついたのは、それを名簿に落としたところでした。諸路の監司のうち才のない者を入れ替え、その管轄下の役人を洗い直させようとした。理念は総論で、人事は各論です。誰が外れるかが見えた時点で、抽象的な賛成は消えます。ここにおいて、小人がはじめて面白くなくなった。次の条の讒言は、ここから始まりました。
この章句が説くこと
公遂に仲淹と各ミ当世の務め十余条を上る大略は賢を進め不肖を退け僥倖を止め宿弊を去るを以て本と為す稍ミ諸路の監司の不才なる者を易えて所部の吏を澄汰せしめんと欲す是に於いて小人始めて悅ばず是に於いて小人始めて悦ばず改革
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