宋名臣言行録 / 後集巻二・富弼
慶厯三年三月命公為樞密副使辭愈力至七月申前命公言敵既通好議者便謂無事邉備遽弛敵萬一敗盟臣死且有罪非獨臣不敢受亦願陛下思外國輕侮中原之恥坐薪嘗膽不忘修政因以告納上前而罷
新字:慶歴三年三月命公為枢密副使辞愈力至七月申前命公言敵既通好議者便謂無事邉備遽弛敵万一敗盟臣死且有罪非独臣不敢受亦願陛下思外国軽侮中原之恥坐薪嘗胆不忘修政因以告納上前而罷
書き下し
慶暦三年三月、公に命じて樞密副使と爲す。辭すること愈ミ力む。七月に至りて前命を申ぬ。公言う、敵既に好を通ず。議する者便ち無事と謂いて、邊備遽かに弛む。敵萬一盟を敗らば、臣死すとも且つ罪有り。獨り臣の敢えて受けざるのみに非ず、亦た願わくは陛下、外國の中原を輕侮するの恥を思い、薪に坐し膽を嘗めて政を修むるを忘れざれと。因りて以て上前に告げ納れて罷む。
現代語訳
慶暦三年三月、富弼を枢密副使に任じた。辞退することはいよいよ力を込めたものになった。七月になって前の任命を繰り返した。富弼は言った。「敵はすでに好を通じました。論ずる者はすぐに無事だと言い、辺境の備えは急にゆるみます。敵が万一、盟約を破ったなら、臣は死んでもなお罪があります。ただ臣が受けられないというだけではありません。願わくは陛下も、外国が中原を軽んじ侮った恥をお思いになり、薪に坐し胆を嘗めて政を修めることをお忘れなきよう」。そう上の前で申し上げて、その場は終わった。
解説
自分が結んだ和議の、いちばん危ういところを、自分で名指ししています。論ずる者はすぐに無事だと言い、辺境の備えは急にゆるみます。危機が去った直後に、備えが最も薄くなる。そしてその責任が自分に返ることまで見ていました。敵が万一、盟約を破ったなら、臣は死んでもなお罪があります。辞退の理由が保身ではなく、成果の脆さの自覚です。天子への注文も添えました。外国が中原を軽んじ侮った恥をお思いになり、薪に坐し胆を嘗めて政を修めることをお忘れなきよう。
この章句が説くこと
敵既に好を通ず議する者便ち無事と謂いて辺備遽かに弛む敵万一盟を敗らば臣死すとも且つ罪有り外国の中原を軽侮するの恥を思う薪に坐し胆を嘗めて政を修むるを忘れざれ備え油断
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