宋名臣言行録 / 後集巻一・韓琦
公論君子小人之際當以誠待之但知其小人當淺與之接耳凡人至於小人欺已處必露其明以破之公獨不然明足以照小人之欺然毎受之未嘗形色也
新字:公論君子小人之際当以誠待之但知其小人当浅与之接耳凡人至於小人欺已処必露其明以破之公独不然明足以照小人之欺然毎受之未嘗形色也
書き下し
公、君子小人の際を論ず。當に誠を以て之を待つべし。但だ其の小人たるを知らば、當に淺く之と接するのみ。凡そ人は小人の己を欺く處に至れば、必ず其の明を露わして以て之を破る。公獨り然らず。明は以て小人の欺きを照らすに足るも、然れども毎に之を受けて、未だ嘗て色に形さざるなり。
現代語訳
韓琦は、君子と小人との接し方を論じた。まことをもって相手を待つべきである。ただ、その人が小人だと分かったら、浅く付き合うだけにすべきだ、と。およそ人は、小人が自分を欺いている場面に至ると、必ず自分の見抜く力をあらわにして、それを打ち破ろうとする。韓琦だけはそうしなかった。その明察は小人の欺きを照らすに十分であったが、そのたびにそれを受け流して、一度も顔色に出したことがなかった。
解説
見抜いたあとの振る舞いだけを論じた条です。ふつうは見抜いた瞬間に、見抜いたことを示します。必ず自分の見抜く力をあらわにして、それを打ち破ろうとする。気持ちのよい一手ですが、相手を敵に変えます。韓琦の対処は二つでした。ひとつは付き合いの深さを変えること。その人が小人だと分かったら、浅く付き合うだけにする。もうひとつが表情です。そのたびにそれを受け流して、一度も顔色に出したことがなかった。分かっていることを知られないほうが、こちらの明察は長く効きます。
この章句が説くこと
当に誠を以て之を待つべし但だ其の小人たるを知らば当に浅く之と接するのみ凡そ人は小人の己を欺く処に至れば必ず其の明を露わして以て之を破る明は小人の欺きを照らすに足るも毎に之を受けて未だ嘗て色に形さず洞察忍耐
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