宋名臣言行録 / 後集巻一・韓琦
義勇民兵將校甚整教習益精而忽創團保甲一道紛然義勇人十去其七破可用之成法得增數之虚名四也河外城池工築並興增置守具檢視器械五也創都作院頒降弓刀新様大作戰車費財殫力先自困弊六也置河北三十七將各專軍政州縣不得關預聲言出征又深見可疑之形七也
新字:義勇民兵将校甚整教習益精而忽創団保甲一道紛然義勇人十去其七破可用之成法得增数之虚名四也河外城池工築並興增置守具検視器械五也創都作院頒降弓刀新様大作戦車費財殫力先自困弊六也置河北三十七将各専軍政州県不得関預声言出征又深見可疑之形七也
書き下し
義勇民兵は將校甚だ整い、教習益ミ精し。而るに忽ち保甲を團するの一道を創り、紛然として義勇の人十に其の七を去る。用う可きの成法を破りて、數を增すの虛名を得たり。四なり。河外の城池、工築並び興り、守具を增置し器械を檢視す。五なり。都作院を創り、弓刀の新樣を頒降し、大いに戰車を作り、財を費やし力を殫くして、先ず自ら困弊す。六なり。河北に三十七將を置き、各ミ軍政を專らにし、州縣關預するを得ず。聲言して出征すと。又た深く疑う可きの形を見わす。七なり。
現代語訳
義勇の民兵は将校がよく整い、訓練もますます精しくなっていました。ところが突然、保甲を組む新しい制度を創り出し、混乱して義勇の人は十のうち七までが去りました。使える出来上がった法を壊して、数が増えたという虚しい名だけを得たのです。これが四つ目です。河の外の城や堀の工事がいっせいに起こり、守りの道具を増やし、武器を点検しています。これが五つ目です。都作院を創り、弓や刀の新しい様式を頒布し、大いに戦車を作って、財を費やし力を尽くし、まず自分のほうが疲れ弊れています。これが六つ目です。河北に三十七人の将を置き、それぞれ軍政を専らにさせ、州県は関与できません。出征すると公言しております。これはさらに深く疑わしい形を見せています。これが七つ目です。
解説
この章句が説くこと
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