宋名臣言行録 / 後集巻一・韓琦
公自永興過闕神宗問曰卿與王安石議論不同何也公曰仁宗立先帝為皇嗣時安石有異議與臣不同故也帝以公之語問荆公公曰方仁宗欲立先帝為太子時春秋未髙萬一有子措先帝於何地臣之論所以與琦異也荆公強辯類此公請冊英宗為皇嗣時仁宗曰少俟後宫有就閣者公曰後宫生子所立嗣退居舊邸可也盖公有以處之矣然荆公當英宗世屢詔不至實自慊也
新字:公自永興過闕神宗問曰卿与王安石議論不同何也公曰仁宗立先帝為皇嗣時安石有異議与臣不同故也帝以公之語問荆公公曰方仁宗欲立先帝為太子時春秋未高万一有子措先帝於何地臣之論所以与琦異也荆公強弁類此公請冊英宗為皇嗣時仁宗曰少俟後宫有就閣者公曰後宫生子所立嗣退居旧邸可也盖公有以処之矣然荆公当英宗世屢詔不至実自慊也
書き下し
公永興より闕を過ぐ。神宗問いて曰く、卿と王安石と議論同じからざるは何ぞやと。公曰く、仁宗の先帝を立てて皇嗣と爲す時、安石に異議有り、臣と同じからず。故なりと。帝、公の語を以て荊公に問う。公曰く、方に仁宗の先帝を立てて太子と爲さんと欲する時、春秋未だ髙からず。萬一子有らば、先帝を何れの地にか措かん。臣の論の琦と異なる所以なりと。荊公の強辯は此に類す。公、英宗を冊して皇嗣と爲さんことを請う時、仁宗曰く、少しく俟て、後宮に閣に就く者有りと。公曰く、後宮子を生まば、立つる所の嗣は舊邸に退居して可なりと。蓋し公、以て之を處する有るなり。然れども荊公、英宗の世に當たり、屢ミ詔せども至らず。實に自ら慊きなり。
現代語訳
韓琦は永興から都を通った。神宗が尋ねて言った。「卿と王安石とで議論が違うのはなぜか」。韓琦は言った。「仁宗が先帝(英宗)を立てて皇嗣とされたとき、安石には異議があり、臣と同じではありませんでした。そのゆえです」。天子は韓琦の言葉を王安石に問うた。王安石は言った。「ちょうど仁宗が先帝を立てて太子とされようとしたとき、お年はまだ高くありませんでした。万一お子ができたら、先帝をどこに置くのですか。臣の議論が琦と異なったのはそのためです」。王安石の強弁はこの類である。韓琦が英宗を皇嗣に冊立するよう願ったとき、仁宗は言った。「しばらく待て。後宮に産み月に入る者がいる」。韓琦は言った。「後宮に子が生まれれば、立てた嗣は元の邸に退けばよいのです」。思うに、韓琦にはちゃんと手当てがあったのである。しかし王安石は英宗の世にあたり、たびたび詔されても出て来なかった。実のところ、自ら後ろめたかったのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
孫子・虚実篇故に前に備うれば則ち後寡なく、後に備うれば則ち前寡なし。左に備うれば則ち右寡なく、右に備うれば則ち左寡なし。備えざる所無ければ、則ち寡なからざる所無し。寡なき者は人に備うる者なり、衆き者は人をして己に備えしむる者なり。
-
葉隠・聞書第一覺りの士というのは、事に逢って仕(し)たるように、前方に、それぞれの仕様(しよう)を吟味し置いて、その時に出合い、仕果(しはた)す者である。不覺の士というのは、その時に至って前方に穿鑿せぬのは、不覺の士と申す。
-
孟子・公孫丑章句上孟子曰く、「仁なれば則ち榮え、不仁なれば則ち辱めらる。今辱めらるるを惡んで不仁に居るは、是れ猶ほ濕を惡んで下きに居るがごときなり。如し之を惡まば、徳を貴びて士を尊ぶに如くは莫し。賢者位に在り、能者職に在り、國家閒暇なりとせん。是の時に及びて其の政刑を明らかにせば、大國と雖も、必ず之を畏れん。詩に云う、『天の未だ陰雨せざるに迨(およぶ)んで、彼の桑土を徹(とる)り、牖(ユウ)戶を綢繆す。今此の下民、敢て予を侮どること或らんや。』孔子曰く、『此の詩を為りし者は、其れ道を知れるか。』能く其の國家を治めば、誰か敢て之を侮らん。今國家閒暇なりとせん。是の時に及んで般樂怠敖せば、是れ自ら禍を求むるなり。禍ᐻは己自り之を求めざる者無し。詩に云う『永く言、命を配し、自ら多ᐻを求む。』太甲に曰く、『天の作せる孼は猶ほ違く可し。自ら作せる孼は活く可からず。』此を之れ謂うなり。」
-
尚書・說命中惟れ事を事とするに、乃ち其れ備え有り、備え有れば患い無し。
-
孫子・始計篇その備えなき所を攻め、その意に出でざる所に出づ。
-
孫子・虚実篇その趨かざる所に出で、その意わざる所に趨く。