宋名臣言行録 / 後集巻一・韓琦
英宗初為皇太子時允弼最尊屬心不平且有語國朝制度嗣天子即位先親王賀次六軍次見百官公是時先獨召允弼入稱先帝晏駕太子即位大王當賀允弼曰皇子為誰曰某人允弼曰豈有團練使為天子者何不立尊行公曰先帝有詔允弼曰焉用宰相遂循殿陛上公叱下曰大王人臣也不得無禮左右甲士已至遂賀次召諸親王見六軍百官中外晏然
新字:英宗初為皇太子時允弼最尊属心不平且有語国朝制度嗣天子即位先親王賀次六軍次見百官公是時先独召允弼入称先帝晏駕太子即位大王当賀允弼曰皇子為誰曰某人允弼曰豈有団練使為天子者何不立尊行公曰先帝有詔允弼曰焉用宰相遂循殿陛上公叱下曰大王人臣也不得無礼左右甲士已至遂賀次召諸親王見六軍百官中外晏然
書き下し
英宗初め皇太子と爲りし時、允弼最も尊屬にして、心平らかならず。且つ語有り。國朝の制度、嗣天子即位すれば、先ず親王賀し、次に六軍、次に百官に見ゆ。公是の時、先ず獨り允弼を召し入れて稱す、先帝晏駕し、太子即位す。大王當に賀すべしと。允弼曰く、皇子は誰と爲すやと。曰く、某人なりと。允弼曰く、豈に團練使にして天子と爲る者有らんや。何ぞ尊行を立てざるやと。公曰く、先帝に詔有りと。允弼曰く、焉んぞ宰相を用いんやと。遂に殿陛に循いて上る。公叱して下らしめて曰く、大王は人臣なり。無禮なるを得ずと。左右の甲士已に至る。遂に賀す。次いで諸親王を召して六軍百官に見ゆ。中外晏然たり。
現代語訳
英宗がはじめ皇太子となったとき、允弼が最も尊い血筋の者であり、心中穏やかでなかった。しかも言い分もあった。宋朝の制度では、後継の天子が即位すると、まず親王が祝い、次に六軍、次に百官が拝謁する。韓琦はこのとき、まず允弼ひとりを召し入れて告げた。「先帝が崩じ、太子が即位されました。大王はお祝いなさるべきです」。允弼は言った。「皇子とは誰か」。「某の人です」。允弼は言った。「団練使ごときが天子になるということがあろうか。なぜ年長の筋を立てないのか」。韓琦は言った。「先帝の詔がございます」。允弼は言った。「宰相など何の役に立つか」。そのまま殿の階段を上ろうとした。韓琦は叱って下がらせ、言った。「大王も人臣です。無礼は許されません」。左右の甲冑の兵がすでに来ていた。允弼はついに祝った。次いで諸親王を召し、六軍と百官が拝謁した。内外は静まり返った。
解説
この章句が説くこと
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説苑・建本晋の襄公薨じ、嗣君少く、趙宣子相たり。大夫に謂いて曰わく、「少君を立つれば、多難ならんことを懼る。請う雍を立てん。雍長じ、出でて秦に在り、秦大にして、以て援と為すに足る」と。賈季曰わく、「公子楽に若かず。楽国に寵有り、先君愛して之を翟に仕えしむ、翟是を以て援と為す」と。穆嬴太子を抱きて庭に呼びて曰わく、「先君奚の罪ありや、其の嗣も亦奚の罪ありや。嫡嗣を捨てて立てずして外に君子を求む」と。朝を出でて抱きて宣子に見えて曰わく、「難きを悪みて、故に長君を立てんと欲するも、長君立ちて少君壮なれば、難乃ち至らん」と。宣子之を患い、遂に太子を立つ。
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『留魂録』第九条又鮎沢伊太夫は水藩の士にして堀江と同居す。余に告げて曰く、「今足下の御沙汰も未だ測られず、小子は海外に赴けば、天下の事総て天命に付せんのみ。但し天下の益となるべき事は、同志に托し後輩に残し度きことなり」と。此の言大いに吾が志を得たり。吾の祈念を籠むる所は、同志の士甲斐甲斐しく吾が志を継紹して、尊攘の大功を建てよかしなり。吾死すとも、堀・鮎二子の如きは、海外に在りとも獄中に在りとも、吾が同志たらん者願はくは交を結べかし。又本所亀沢町に山口三輶と云ふ医者あり、義を好む人と見えて、堀・鮎二子の事など外間に在りて大いに周旋せり。尤も及ぶべからざるは、未だ一面もなき小林民部の事、二子より申し遣はしたれば、小林の為めにも亦大いに周旋せり。此の人想ふに不凡ならん。且つ三子への通路は此の三輶老に托すべし。
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『武士道』第十六章 武士道の命脈・七百年に蓄積したる動量其メーソニック・サイン明亮なることは、個々の間、暗号を有せずしてなお能く直ちに感通するを得るに足るものあり、となす。武士道の我国民、特に士林に印象したる性格は、之を以て種属の具有する不変の要素を形成するものなりと称するを得ずと雖、なお之れが活力を保有せることは、復た疑を容れず。武士道もしただ物理力に過ぎずとすとも、なお既往七百年の間に蓄積したる動量は、俄然停止するを得べきに非ず。武士道はただ遺伝によりてのみ継承したりとすとも、其感化の範囲はすこぶる広大ならずんばあらず。試みに思へ、仏国経済学者ケソン氏が、仮に一世紀を人間三代と定めて打算せば、『吾人は各自其血管中に、紀元一千年に生存したる、少くも二千万人の血液を伝ふるものなり』と云へるを。
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『墨子』耕柱公孟子曰く、「君子は作らず、術ぶるのみ」と。子墨子曰く、「然らず。人の其れ君子ならざる者は、古の善き者は誅がず、今や善き者は作らず。其の次に君子ならざる者は、古の善き者は遂げず、已に善有れば則ち之を作り、善の己より出でんことを欲す。今、誅ぎて作らざるは、是れ遂ぐるを好まずして作る者に異なる所無きなり。吾れ以為えらく、古の善き者は則ち之を誅ぎ、今の善き者は則ち之を作り、善の益ます多からんことを欲すと」と。
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尚書・伊訓惟れ元祀(げんし)十有二月乙丑、伊尹先王に祠(まつ)り、嗣王を奉じて祗(つつし)みて厥(そ)の祖に見(まみ)えしむ。侯甸(こうでん)の群后咸(みな)在り、百官己を総べて以て冢宰(ちようさい)に聴く。伊尹乃ち明らかに烈祖の成徳を言ひ、以て王を訓(をし)へて曰く、「嗚呼(ああ)、古(いにしへ)の有夏の先后、方(まさ)に厥の徳を懋(つと)め、天災有る罔(な)し。山川鬼神も亦寧(やす)からざる莫(な)く、鳥獣魚鼈(ぎよべつ)に暨(およ)ぶまで咸若(したが)ふ。其の子孫に于(お)いて率(したが)はず、皇天災を降し、手を我が命有るものに仮る。攻を造(はじ)むるは鳴条よりし、朕が哉(はじ)めは亳よりす。惟れ我が商王、聖武を布昭し、虐に代ふるに寛を以てし、兆民允(まこと)に懐く。今王厥の徳を嗣ぐは、初めに在らざる罔し。
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説苑・修文春秋に曰く、「壬申、公高寢に薨ず。」傳に曰く、「高寢とは何ぞ?正寢なり。曷為れぞ或いは高寢と言い、或いは路寢と言うか?曰く、諸侯の正寢三つ、一に曰く高寢、二に曰く左路寢、三に曰く右路寢。高寢とは、始めて封ぜられし君の寢なり。二つの路寢とは、體を繼ぐ君の寢なり。其の二つなるは何ぞ?曰く、子父の寢に居らず、故に二寢あり。體を繼ぐ君は世世高祖の寢に居るべからず、故に高寢有り、名づけて高と曰う。路寢其の立つこと奈何?高寢中に立ち、路寢左右す。」と。春秋に曰く、「天王成周に入る。」傳に曰く、「成周とは何ぞ?東周なり。然らば則ち天子の寢奈何?曰く、亦二つの承明あり、體を繼ぎ文を守る君の寢、左右の路寢と曰う。之を承明と謂うは何ぞ?曰く、明堂の後に承くる者なり。故に天子諸侯三寢立ちて名實正しく、父子の義章らかに、尊卑の事別れ、大小の德異なるなり。」

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