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宋名臣言行録 / 前集巻八・吳育

寳元初元昊嫚書始聞張鄧公爲相即議絶和問罪時西邉弛備巳久不知兵識者以爲憂公時爲諫官上言夷狄不識禮義宜勿與較許其所求彼將無詞舉動然後隂勑邉臣宻修戰備使年嵗之間戰守之計立則元昊雖欲妄作不能爲深害矣奏入鄧公笑曰人言吳舍人心風果然既而和事一絶元昊入冦所至如入無人之境後數年力盡求和嵗増賂遺仍改名兀卒朝廷亦竟不問世乃以公之言爲然

新字:寳元初元昊嫚書始聞張鄧公為相即議絶和問罪時西邉弛備巳久不知兵識者以為憂公時為諫官上言夷狄不識礼義宜勿与較許其所求彼将無詞舉動然後陰勑邉臣宻修戦備使年歳之間戦守之計立則元昊雖欲妄作不能為深害矣奏入鄧公笑曰人言吳舎人心風果然既而和事一絶元昊入寇所至如入無人之境後数年力尽求和歳増賂遺仍改名兀卒朝廷亦竟不問世乃以公之言為然

書き下し

寳元の初め、元昊の嫚書、始めて聞こゆ。張鄧公、相と爲る。即ち和を絶ちて罪を問わんことを議す。時に西邉、備えを弛むこと巳に久し。兵を知らず。識者以て憂いと爲す。公、時に諫官と爲り、上言す、夷狄は禮義を識らず。宜しく與に較ぶる勿かるべし。其の求むる所を許さば、彼、將に詞を舉動する無からん。然る後に隂かに邉臣に勑して宻かに戰備を修めしめ、年嵗の間をして戰守の計立たしめば、則ち元昊、妄作せんと欲すと雖も、深害を爲す能わざらんと。奏入る。鄧公笑いて曰く、人、吳舍人は心風なりと言う。果たして然りと。既にして和事一たび絶え、元昊入冦す。至る所、無人の境に入るが如し。後數年、力盡きて和を求む。歳、賂遺を増し、仍りて名を兀卒と改む。朝廷も亦た竟に問わず。世、乃ち公の言を以て然りと爲す。

現代語訳

宝元のはじめ、趙元昊の無礼な書がはじめて知られた。張士遜が宰相であった。すぐに和を絶って罪を問うことを議した。当時、西の国境は備えを緩めて久しかった。戦を知らなかった。見識ある者はそれを憂えた。公は当時、諫官であって上言した。「異民族は礼義を知りません。張り合うべきではありません。その求めるところを許せば、あちらは言い立てる口実がなくなります。そのうえでひそかに国境の臣に命じて内々に戦の備えを整えさせ、一、二年のうちに攻守の計を立てさせれば、元昊がでたらめをしようとしても、深い害をなすことはできません」。上奏が届いた。張士遜は笑って言った。「人が、呉舎人は気が触れていると言う。はたしてそのとおりだ」。ほどなく和がいったん絶たれ、元昊が攻め込んだ。行く先々、無人の地に入るようであった。数年後、力尽きて和を求めた。年ごとの贈り物を増やし、そのうえ名を兀卒と改めた。朝廷もけっきょく問わなかった。世の人はそこで、公の言葉が正しかったとした。

解説

侮辱に張り合うな、と説いた条です。手順が二段でした。**求めるところを許せば、あちらは言い立てる口実がなくなる。そのうえでひそかに備えを整え、一、二年で攻守の計を立てる。**譲るのは、時間を買うためです。**気が触れている**と笑われました。実際に起きたのは、数年の惨敗のあと、贈り物を増やして和を結び、朝廷は名前のことも問わなかった、という結末です。**譲る内容は同じで、数年分の犠牲だけが余計でした。**

この章句が説くこと

夷狄は礼義を識らず宜しく与に較ぶる勿かるべし其の求むる所を許さば彼将に詞を舉動する無からん然る後に陰かに邉臣に勑して宻かに戦備を修めしめ年歳の間をして戦守の計立たしむ人吳舎人は心風なりと言う果たして然り譲歩時間備え

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