宋名臣言行録 / 前集巻八・狄青
時智髙還守邕州青懼崑崙闗險阨爲所據乃下令賔州其五日糧休士卒賊諜知不爲備是夜大風雨青率衆半夜時度崑崙闗既度喜曰賊不知守此無能為也彼謂夜半風雨吾不敢來吾來所以出其不意也巳近邕州賊方覺逆戰於歸仁舖青登髙望之賊據坡上我軍薄之禆將孫節中流矢死青急麾軍進人人皆殊死戰先是青巳縱蕃落馬二千出賊後至是前後合擊賊之標牌軍爲馬軍所衝突皆不能駐軍士又縱馬上鐡連枷擊之遂皆披靡相枕藉死賊遂大敗智髙果焚城遁去青先與公亮言立軍制明賞罰賊不可得見標牌不能當騎兵皆如所料青坐堂户之上論兵數千里之外辭約而慮明雖古名將何以加此豈特一時之武人崛起者乎
新字:時智高還守邕州青懼崑崙関険阨為所拠乃下令賓州其五日糧休士卒賊諜知不為備是夜大風雨青率衆半夜時度崑崙関既度喜曰賊不知守此無能為也彼謂夜半風雨吾不敢来吾来所以出其不意也巳近邕州賊方覚逆戦於帰仁舖青登高望之賊拠坡上我軍薄之禆将孫節中流矢死青急麾軍進人人皆殊死戦先是青巳縦蕃落馬二千出賊後至是前後合撃賊之標牌軍為馬軍所衝突皆不能駐軍士又縦馬上鐡連枷撃之遂皆披靡相枕藉死賊遂大敗智高果焚城遁去青先与公亮言立軍制明賞罰賊不可得見標牌不能当騎兵皆如所料青坐堂戸之上論兵数千里之外辞約而慮明雖古名将何以加此豈特一時之武人崛起者乎
書き下し
時に智髙、還りて邕州を守る。青、崑崙闗の險阨、據らるる所と爲るを懼る。乃ち賔州に令を下し、其の五日の糧、士卒を休ましむ。賊の諜、備えを爲さずと知る。是の夜、大風雨あり。青、衆を率いて半夜の時、崑崙闗を度る。既に度りて喜びて曰く、賊、此を守るを知らず。爲す能う無きなり。彼、夜半風雨にて吾れ敢えて來らずと謂う。吾が來るは、其の不意に出づる所以なりと。巳に邕州に近づく。賊方に覺る。歸仁舖に逆戰す。青、髙きに登りて之を望む。賊、坡上に據る。我が軍之に薄る。禆將孫節、流矢に中りて死す。青、急に軍を麾きて進ましむ。人人皆な殊死して戰う。是より先、青、巳に蕃落の馬二千を縱ちて賊の後に出でしむ。是に至り前後合擊す。賊の標牌軍、馬軍の衝突する所と爲り、皆な駐まる能わず。軍士又た馬上の鐡連枷を縱ちて之を擊つ。遂に皆な披靡し、相い枕藉して死す。賊遂に大敗す。智髙、果たして城を焚きて遁れ去る。青、先に公亮と言う、軍制を立て賞罰を明らかにす、賊、見るを得可からず、標牌は騎兵に當たる能わずと。皆な料る所の如し。青、堂户の上に坐して兵を數千里の外に論ず。辭約にして慮明なり。古の名將と雖も、何を以て此に加えん。豈に特だ一時の武人の崛起する者ならんや。
現代語訳
当時、儂智高は帰って邕州を守っていた。狄青は崑崙関の険しい地形を押さえられることを恐れた。そこで賓州に令を下し、五日分の糧を用意して兵を休ませた。賊の間諜は備えをしていないと知った。その夜、大風雨があった。狄青は軍を率いて夜半に崑崙関を越えた。越えてから喜んで言った。「賊はここを守ることを知らない。もう何もできない。あちらは、夜半の風雨では私が来られないと思っている。私が来たのは、その不意を突くためだ」。もう邕州に近づいた。賊はやっと気づいた。帰仁舗で迎え撃った。狄青は高い所に登って眺めた。賊は坂の上を押さえていた。我が軍がそれに迫った。副将の孫節が流れ矢に当たって死んだ。狄青は急いで軍を指揮して進ませた。人という人がみな死を決して戦った。これより先、狄青はすでに蕃族の騎兵二千を放って賊の後方に出させていた。ここに至って前後から挟み撃ちにした。賊の盾の軍は騎兵に突き崩されて、みな踏みとどまれなかった。兵士はさらに馬上の鉄の連枷を振るってこれを打った。そこでみな崩れ倒れ、重なり合って死んだ。賊はついに大敗した。儂智高は、はたして城を焼いて逃げ去った。狄青は先に曽公亮に、軍制を立て賞罰を明らかにする、賊は会えなくなる、盾は騎兵に当たれない、と言っていた。みな予想したとおりであった。狄青は堂の上に坐って、数千里の外の戦を論じた。言葉は簡潔で慮りは明らかであった。古の名将であっても、これに何を加えられよう。ただ一時の武人が急に頭角を現しただけの者ではない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孫子・虚実篇その趨かざる所に出で、その意わざる所に趨く。
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孫子・始計篇その備えなき所を攻め、その意に出でざる所に出づ。
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孫子・行軍篇兵怒りて相迎え、久しくして合わず、又相去らざるは、必ず謹んでこれを察すべし。
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『春秋左氏伝』僖公三十三年 弦高、秦師を犒う三十三年春、秦の師周の北門を過ぐ。左右冑を免ぎて下り、超乘する者三百乘。王孫滿尚ほ幼し。之を觀て、王に言ひて曰く、「秦の師輕くして禮無し。必ず敗れん。輕ければ則ち謀寡く、禮無ければ則ち脫(だつ)す。險に入りて脫し、又謀る能はず、能く敗るること無からんや」と。滑に及び、鄭の商人弦高將に周に市せんとして、之に遇ふ。乘韋を以って先にし、牛十二もて師を犒ひて曰く、「寡君吾子の將に師を步ませて敝邑より出でんとするを聞き、敢へて從者を犒はしむ。不腆(ふてん)の敝邑、從者の淹(ひさ)しきが為に、居れば則ち一日の積を具へ、行けば則ち一夕の衛を備へん」と。且つ遽(きょ)をして鄭に告げしむ。鄭の穆公客館を視しむれば、則ち束載し、兵を厲(と)ぎ、馬に秣(まぐさか)へり。皇武子をして辭せしめて曰く、「吾子敝邑に淹久し、唯だ是れ脯資・餼牽竭きたり。吾子の將に行かんとするが為なり。鄭の原圃有るは、猶ほ秦の具囿有るがごときなり。吾子其の麋鹿を取りて、以って敝邑を閒(やす)んぜしめば、若何」と。杞子齊に奔り、逢孫・楊孫宋に奔る。孟明曰く、「鄭備へ有り、冀(こひねが)ふ可からず。之を攻むれども克たず、之を圍めども繼がず。吾其れ還らん」と。滑を滅ぼして還る。齊の國莊子來聘す。郊勞より贈賄に至るまで、禮成りて之に加ふるに敏を以ってす。臧文仲公に言ひて曰く、「國子政を為し、齊猶ほ禮有り。君其れ朝せよ。臣之を聞く、禮有るに服するは、社稷の衛なり」と。
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史記 秦本紀繆公聞き、怒りて曰く、「孤兵を発して子沮みて吾が軍を哭するは、何ぞや」と。二老曰く、「臣敢へて君の軍を沮むに非ず。軍行くに、臣の子与に往く。臣老いたり、遅く還らば相見ざらんことを恐る、故に哭するのみ」と。二老退きて、其の子に謂ひて曰く、「汝の軍即し敗れなば、必ず殽の阨に於てせん」と。三十三年春、秦の兵遂に東し、晋の地を更り、周の北門を過ぐ。周の王孫満曰く、「秦の師礼無し、敗れずして何をか待たん」と。兵滑に至る。鄭の販売の賈人弦高、十二牛を持ちて将に之を周に売らんとす。秦の兵を見て、死虜を恐れ、因りて其の牛を献じて、曰く、「大国将に鄭を誅せんとすと聞く。鄭君謹んで守御の備へを修め、臣をして牛十二を以て軍士を労はしむ」と。秦の三将軍相謂ひて曰く、「将に鄭を襲はんとす。鄭今已に之を覚る、往くも及ぶ無し」と。滑を滅ぼす。滑は、晋の辺邑なり。是の時に当たり、晋の文公の喪尚ほ未だ葬らず。太子襄公怒りて曰く、「秦我が孤を侮り、喪に因りて我が滑を破る」と。遂に衰絰を墨くし、
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『春秋左氏伝』昭公十七年 彗星と火災の予言九月、丁卯、晉の荀吳師を帥ゐて、棘津より涉り、祭史をして先づ牲を雒に用ゐしむ。陸渾の人知らず。師之に從ふ。庚午、遂に陸渾を滅ぼす。之を數むるに其の楚に貳するを以てす。陸渾子楚に奔り、其の衆甘鹿に奔る。周大いに獲たり。宣子、文公荀吳を攜へて之に陸渾を授くるを夢む。故に穆子をして師を帥ゐしめ、俘を文宮に獻ず。冬、星大辰に孛する有り、西のかた漢に及ぶ。申須曰く、「彗は舊を除き新を布く所以なり。天事は恆に象あり。今火に除く。火出づれば必ず布かん。諸侯其れ火災有らんか」と。梓慎曰く、「往年吾之を見る。是れ其の徵なり。火出でて見ゆ。今茲火出でて章かなり。必ず火入りて伏せん。其の火に居ること久し。其れ然らざらんや。火出づるは、夏に於いては三月為り、商に於いては四月為り、周に於いては五月為り。夏數天を得たり。若し火作らば、其れ四國之に當たらん。宋・衛・陳・鄭に在らんか。宋は大辰の虛なり。陳は大皞の虛なり。鄭は祝融の虛なり。皆火房なり。星孛して天漢に及ぶ。漢は水祥なり。衛は顓頊の虛なり、故に帝丘為り。其の星は大水為り。水は火の牡なり。其れ丙子若しくは壬午を以て作らんか。水火の合する所以なり。若し火入りて伏せば、必ず壬午を以てし、其の見ゆるの月を過ぎず」と。鄭の裨竈子產に言ひて曰く、「宋・衛・陳・鄭、將に同日に火あらんとす。若し我瓘斝玉瓚を用ゐば、鄭必ず火あらず」と。子產與へず。

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