宋名臣言行録 / 前集巻六・吕夷簡
李宸妃薨章獻欲以宫人禮治䘮于外公奏宜從厚章獻遽引帝起頃之獨坐簾下召公問曰一宫人死相公云云何與公曰臣待罪宰相事無内外無不當預章獻怒曰相公欲離間吾母子耶公從容對曰陛下不以劉氏為念臣不敢言尚念劉氏也喪禮宜從厚章獻悟遽曰宫人李宸妃也且奈何公乃請治喪皇儀殿用一品禮殯洪福寺公又謂入内都知羅崇勲曰宸妃當以后服殮用水銀實棺異時莫道夷簡不曽説来章獻皆從之後章獻上仙燕王謂仁宗言陛下乃李宸妃所生妃死以非命仁宗號慟頓毁不視朝者累日下哀痛之詔自責尊宸妃為皇太后謚章懿甫畢章獻殿□幸洪福寺祭告易梓宫帝親哭視之后玉色如生冠服如皇太后者以有水銀故不壊也帝嘆息曰人言其可信哉待劉氏加厚
新字:李宸妃薨章献欲以宮人礼治喪于外公奏宜従厚章献遽引帝起頃之独坐簾下召公問曰一宮人死相公云云何与公曰臣待罪宰相事無内外無不当預章献怒曰相公欲離間吾母子耶公従容対曰陛下不以劉氏為念臣不敢言尚念劉氏也喪礼宜従厚章献悟遽曰宮人李宸妃也且奈何公乃請治喪皇儀殿用一品礼殯洪福寺公又謂入内都知羅崇勲曰宸妃当以后服殮用水銀実棺異時莫道夷簡不曽説来章献皆従之後章献上仙燕王謂仁宗言陛下乃李宸妃所生妃死以非命仁宗号慟頓毀不視朝者累日下哀痛之詔自責尊宸妃為皇太后謚章懿甫畢章献殿□幸洪福寺祭告易梓宮帝親哭視之后玉色如生冠服如皇太后者以有水銀故不壊也帝嘆息曰人言其可信哉待劉氏加厚
書き下し
李宸妃薨ず。章獻、宫人の禮を以て喪を外に治めんと欲す。公奏す、宜しく厚きに從うべしと。章獻遽かに帝を引きて起つ。頃くして獨り簾下に坐す。公を召して問いて曰く、一宫人死す。相公、云云するは何ぞやと。公曰く、臣、罪を宰相に待つ。事に内外無く、當に預らざる無しと。章獻怒りて曰く、相公、吾が母子を離間せんと欲するかと。公、從容として對えて曰く、陛下、劉氏を以て念と為さずんば、臣、敢えて言わず。尚お劉氏を念わば、喪禮は宜しく厚きに從うべしと。章獻悟りて遽かに曰く、宫人は李宸妃なり。且つ奈何せんと。公乃ち喪を皇儀殿に治め、一品の禮を用いて洪福寺に殯せんことを請う。公又た入内都知羅崇勲に謂いて曰く、宸妃は當に后服を以て殮すべし。水銀を用いて棺に實てよ。異時、夷簡曽て説き来たらずと道う莫かれと。章獻皆な之に從う。後、章獻上仙す。燕王、仁宗に謂いて、陛下は乃ち李宸妃の生む所なり、妃は死するに非命を以てすと言う。仁宗號慟し、頓に毁れて朝を視ざる者累日。哀痛の詔を下して自ら責め、宸妃を尊びて皇太后と為し、章懿と謚す。甫めて畢わる。章獻の殿□、洪福寺に幸して祭告し、梓宫を易う。帝、親ら哭して之を視る。后の玉色、生けるが如く、冠服は皇太后なる者の如し。水銀有るを以ての故に壊れざるなり。帝歎息して曰く、人言、其れ信ず可けんやと。劉氏を待つこと加々厚し。
現代語訳
李宸妃が亡くなった。章献太后は、宮人の礼で葬儀を宮の外で行おうとした。公は奏上した。「手厚くすべきです」。章献はすぐに帝を引いて立ち上がった。しばらくして一人で簾の下に坐った。公を召して尋ねた。「一人の宮人が死んだ。相公があれこれ言うのは、どうしたわけか」。公は言った。「臣は宰相の職にあります。事に内も外もなく、あずからないものはありません」。章献は怒って言った。「相公は、私たち母子を離間しようというのか」。公はゆったりと答えた。「陛下が劉氏のことをお考えでないなら、臣はあえて申しません。なお劉氏をお考えなら、葬儀は手厚くすべきです」。章献は悟って、すぐに言った。「その宮人とは李宸妃のことだ。ではどうすればよい」。公はそこで、葬儀を皇儀殿で行い、一品の礼を用いて洪福寺に安置するよう求めた。公はさらに入内都知の羅崇勲に言った。「宸妃は后の礼服で納棺すべきだ。水銀を使って棺を満たせ。いつか、呂夷簡がそう言わなかったなどと言うな」。章献はどれも従った。後に章献が崩じた。燕王が仁宗に、陛下は李宸妃のお生みになった方であり、妃は尋常でない死に方をしたのだ、と言った。仁宗は泣き叫び、たちまち痩せ衰えて何日も朝廷に出なかった。哀痛の詔を下して自らを責め、宸妃を尊んで皇太后とし、章懿と諡した。それが終わったばかりのころ。章献の殿□、洪福寺へ行幸して祭りを告げ、棺を改めた。帝は自ら哭してそれを見た。妃の顔の色は生きているようで、冠と服は皇太后のものであった。水銀があったので、腐らなかったのである。帝は嘆息して言った。「人の言うことは、信じてよいものだろうか」。以後、劉氏を待遇することは、いよいよ手厚くなった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』昭公二十一年 先んずれば人の心を奪う冬、十月、華登吳の師を以って華氏を救ふ。齊の烏枝鳴宋を戍る。廚人濮曰く、「軍志に之れ有り、『人に先んずれば人の心を奪ふ有り、人に後るれば其の衰へを待つ有り』と。盍ぞ其の勞して且つ未だ定まらざるに及びて、諸を伐たざる。若し入りて固くせば、則ち華氏衆からん。悔ゆとも及ぶ無からん」と。之に從ふ。丙寅、齊の師・宋の師、吳の師を鴻口に敗り、其の二帥、公子苦雂・偃州員を獲たり。華登、其の餘を帥ゐて以って宋の師を敗る。公出でんと欲す。廚人濮曰く、「吾は小人なり、死を藉(か)す可くして亡を送る能はず。君請ふ之を待て」と。乃ち徇へて曰く、「徽を楊ぐる者は、公の徒なり」と。衆之に從ふ。公楊門より之を見、下りて之を巡りて曰く、「國亡び君死するは、二三子の恥なり。豈に專ら孤の罪ならんや」と。齊の烏枝鳴曰く、「少を用ゐるは齊しく死を致すに如くは莫く、齊しく死を致すは備へを去るに如くは莫し。彼は兵多し。
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孫子・虚実篇孫子曰く、凡そ先に戦地に処して敵を待つ者は佚く、後に戦地に処して戦いに趨く者は労す。
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『春秋左氏伝』宣公十二年 人に先んずる趙嬰齊其の徒をして先づ舟を河に具へしむ、故に敗れて先づ濟る。潘黨既に魏錡を逐ふ。趙旃夜楚の軍に至り、軍門の外に席して、其の徒をして之に入らしむ。楚子乘廣三十乘を為り、分ちて左右と為す。右廣は、雞鳴にして駕し、日中にして說く。左則ち之を受け、日入にして說く。許偃右廣に御し、養由基右と為る。彭名左廣に御し、屈蕩右と為る。乙卯、王左廣に乘りて、以て趙旃を逐ふ。趙旃車を棄てて林に走る、屈蕩之に搏ちて、其の甲裳を得たり。晉人二子の楚の師を怒らせんことを懼るるや、軘車をして之を逆へしむ。潘黨其の塵を望み、騁せて告げしめて曰く、「晉の師至れり」と。楚人も亦た王の晉の軍に入らんことを懼るるや、遂に出でて陳す。孫叔曰く、「之を進めよ。寧ろ我人に薄るとも、人の我に薄ること無かれ。詩に云ふ、『元戎十乘、以て先づ行を啟く』と、人に先んずるなり。軍志に曰く、『人に先んずれば人の心を奪ふこと有り』と、之に薄るなり」と。遂に疾く師を進め、車馳せ卒奔りて、晉の軍に乘ず。桓子為す所を知らず、軍中に鼓して、曰く、「先づ濟る者には賞有り」と。
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尉繚子・戰威善く兵を用うる者は、能く人を奪いて人に奪われず。
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葉隠・聞書第一鉄山(てつざん)、老後に申し候は、「取手は相撲には違い、一旦(いったん)下になりても、後に勝ちさえすれば済む事と心得罷(まか)り在り。近年存じ当たり候は、一旦下になりて居る時、若(も)し誰(だれ)ぞ取りさかえ候わば負けになるべし。始めに勝つが始終の勝ちなり。」と申され候由。
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尉繚子・戰權兵法に曰く、「千人にして権を成し、万人にして武を成す。権先づ人に加ふる者は、敵力交へず。武先づ人に加ふる者は、敵威接せず」と。故に兵は先を貴ぶ。此に勝てば、則ち彼に勝つ。此に勝たざれば、則ち彼に勝たず。凡そ我往けば則ち彼来たり、彼来たれば則ち我往き、相勝敗を為す、此れ戦の理の然るなり。夫れ精誠は神明に在り、戦権は道の極まる所に在り。有る者は之を無くし、無き者は之を有らしむ、安んぞ之を信ずる所あらん。先王の伝聞する所の者は、正に任じ詐を去り、其の慈順を存し、決して留刑無し。故に道を知る者は、必ず先づ止まるを知らざるの敗を図る、悪んぞ必ず往きて功有るに在らんや。軽く進みて戦を求むれば、敵復た止まるを図り、我往きて敵勝を制す。故に兵法に曰く、「求めて之に従ひ、見て之に加へ、主人敢へて当たらざるに之を陵げば、必ず其の権を喪ふ」と。凡そ奪はるる者は気無く、恐るる者は守るべからず、敗るる者は人無し、兵に道無ければなり。意往きて疑はざれば、則ち之に従ふ。敵を奪ひて前無ければ、則ち之に加ふ。明らかに視て高く居れば、則ち之を威す。兵の道極まれり。其の言謹み無ければ、偸みて失はしむ。其の陵犯節無ければ、破る。水のごとく潰し雷のごとく撃てば、三軍乱る。必ず其の危ふきを安んじ、其の患を去り、智を以て之を決す。之を高くするに廊廟の論を以てし、之を重くするに受命の論を以てし、之を鋭くするに踰垠の論を以てすれば、則ち敵国戦はずして服すべし。

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