宋名臣言行録 / 前集巻三・張詠
公去蜀留一巻實封文字與僧正希白云□十年觀此後十年公薨于陳訃至蜀人罷市號慟希白為公設大㑹齋請知府凌䇿發所留文字乃公畫像自為贊云乖則違俗崖則絶物乖崖之名聊以表徳因號乖崖公
新字:公去蜀留一巻実封文字与僧正希白云□十年観此後十年公薨于陳訃至蜀人罷市号慟希白為公設大会斎請知府凌策発所留文字乃公画像自為賛云乖則違俗崖則絶物乖崖之名聊以表徳因号乖崖公
書き下し
公、蜀を去るに、一巻の實封の文字を僧正希白に留めて云う、□十年、此を觀よと。後十年、公陳に薨ず。訃至る。蜀人市を罷めて號慟す。希白、公の為に大㑹齋を設け、知府凌䇿を請いて留むる所の文字を發かしむ。乃ち公の畫像にして、自ら贊を為りて云う、乖なれば則ち俗に違い、崖なれば則ち物を絶つ。乖崖の名、聊か以て徳を表すと。因りて乖崖公と號す。
現代語訳
公が蜀を去るとき、封をした一巻の文書を僧正の希白に預けて言った。「□十年たったら、これを見よ」。十年後、公は陳州で亡くなった。訃報が届いた。蜀の人々は市を閉じて泣き叫んだ。希白は公のために大がかりな法会を設け、知府の凌策を招いて預かっていた文書を開かせた。それは公の肖像画で、自ら賛を書いてこう記してあった。「乖であれば俗と違い、崖であれば物と絶つ。乖崖という名は、いささか徳を表すためのものだ」。そこで乖崖公と号した。
解説
十年後に開けと言い残した封書が、自分の肖像画だった条です。賛の言葉が自分の号の説明になっています。**乖であれば俗と違い、崖であれば物と絶つ。**「乖崖」は、ひねくれ者・とっつきにくい者という悪口に近い字です。それを自分の号として引き受け、いささか徳を表すためのものだと書いている。十年後の自分の葬式に届くように仕掛けた、自己紹介です。原文の□は四庫全書本の欠字です。
この章句が説くこと
乖なれば則ち俗に違い崖なれば則ち物を絶つ乖崖の名聊か以て徳を表す一巻の実封の文字を僧正希白に留む自号短所自己認識
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