宋名臣言行録 / 前集巻一・趙普
昭憲太后聰明有智度嘗與太祖參決大政及疾篤太祖侍藥餌不離左右太后曰汝知所以得天下乎上曰此皆祖考與太后之餘慶也太后笑曰不然正由柴氏使幼兒主天下耳因戒太祖曰汝萬嵗後當以次傳之二弟則并汝之子亦獲安矣太祖頓首泣曰敢不如母教太后因召普於榻前為約誓書普於紙尾自署名云臣普書藏之金匱命謹宻宮人掌之及太宗即位普為多遜所譛出守河陽日夕憂不測上一旦發金匱得書大悟遂遣使急召之普惶恐為遺書與家人别而後行既至復為相
新字:昭憲太后聰明有智度嘗与太祖参決大政及疾篤太祖侍薬餌不離左右太后曰汝知所以得天下乎上曰此皆祖考与太后之余慶也太后笑曰不然正由柴氏使幼児主天下耳因戒太祖曰汝万歳後当以次伝之二弟則并汝之子亦獲安矣太祖頓首泣曰敢不如母教太后因召普於榻前為約誓書普於紙尾自署名云臣普書蔵之金匱命謹密宮人掌之及太宗即位普為多遜所譛出守河陽日夕憂不測上一旦発金匱得書大悟遂遣使急召之普惶恐為遺書与家人別而後行既至復為相
書き下し
昭憲太后聰明にして智度有り。嘗て太祖と大政を參決す。疾篤きに及び、太祖藥餌に侍して左右を離れず。太后曰く、汝、天下を得たる所以を知るかと。上曰く、此れ皆な祖考と太后の餘慶なりと。太后笑いて曰く、然らず。正に柴氏の幼兒をして天下を主らしめしに由るのみと。因りて太祖を戒めて曰く、汝萬歳の後、當に次を以て之を二弟に傳うべし。則ち汝の子を并せて亦た安きを獲んと。太祖頓首泣きて曰く、敢えて母の教えの如くせざらんやと。太后因りて普を榻前に召して約誓の書を為らしむ。普、紙尾に自ら名を署して云う、臣普書すと。之を金匱に藏め、謹宻の宮人に命じて之を掌らしむ。太宗即位するに及び、普、多遜の譛る所と為りて出でて河陽を守る。日夕、不測を憂う。上一旦金匱を發きて書を得、大いに悟る。遂に使いを遣わして急ぎ之を召す。普惶恐し、遺書を為りて家人と别れて而る後に行く。既に至りて復た相と為る。
現代語訳
昭憲太后は聡明で思慮の広い人であった。かつて太祖と大政を決めることに加わっていた。病が重くなったとき、太祖は薬の世話をして側を離れなかった。太后は言った。「おまえは、天下を得られた理由を知っているか」。太祖は「これはみな祖先と母上の余慶です」と言った。太后は笑って言った。「そうではない。ちょうど柴氏が幼い子に天下を任せたからにすぎない」。そして太祖を戒めて言った。「おまえが世を去ったあとは、順を追って二人の弟に伝えなさい。そうすればおまえの子もあわせて安泰でいられる」。太祖は頭を下げて泣き、「母上の教えのとおりにしないことがありましょうか」と言った。太后はそこで趙普を寝台の前に召して、誓約の書を作らせた。趙普は紙の末尾に自ら署名して「臣普書す」と記した。これを金の櫃に納め、口の堅い宮女に命じて管理させた。太宗が即位すると、趙普は盧多遜に讒言されて地方に出て河陽を守った。朝も晩も、身に何が起こるか分からないと憂えていた。ある日、太宗が金の櫃を開けてその書を得、大いに悟った。そこで使者を遣わして急ぎ召した。趙普は恐れ、遺書を書いて家族に別れを告げてから出発した。着いてみると、ふたたび宰相となったのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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説苑・建本晋の襄公薨じ、嗣君少く、趙宣子相たり。大夫に謂いて曰わく、「少君を立つれば、多難ならんことを懼る。請う雍を立てん。雍長じ、出でて秦に在り、秦大にして、以て援と為すに足る」と。賈季曰わく、「公子楽に若かず。楽国に寵有り、先君愛して之を翟に仕えしむ、翟是を以て援と為す」と。穆嬴太子を抱きて庭に呼びて曰わく、「先君奚の罪ありや、其の嗣も亦奚の罪ありや。嫡嗣を捨てて立てずして外に君子を求む」と。朝を出でて抱きて宣子に見えて曰わく、「難きを悪みて、故に長君を立てんと欲するも、長君立ちて少君壮なれば、難乃ち至らん」と。宣子之を患い、遂に太子を立つ。
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『留魂録』第九条又鮎沢伊太夫は水藩の士にして堀江と同居す。余に告げて曰く、「今足下の御沙汰も未だ測られず、小子は海外に赴けば、天下の事総て天命に付せんのみ。但し天下の益となるべき事は、同志に托し後輩に残し度きことなり」と。此の言大いに吾が志を得たり。吾の祈念を籠むる所は、同志の士甲斐甲斐しく吾が志を継紹して、尊攘の大功を建てよかしなり。吾死すとも、堀・鮎二子の如きは、海外に在りとも獄中に在りとも、吾が同志たらん者願はくは交を結べかし。又本所亀沢町に山口三輶と云ふ医者あり、義を好む人と見えて、堀・鮎二子の事など外間に在りて大いに周旋せり。尤も及ぶべからざるは、未だ一面もなき小林民部の事、二子より申し遣はしたれば、小林の為めにも亦大いに周旋せり。此の人想ふに不凡ならん。且つ三子への通路は此の三輶老に托すべし。
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『武士道』第十六章 武士道の命脈・七百年に蓄積したる動量其メーソニック・サイン明亮なることは、個々の間、暗号を有せずしてなお能く直ちに感通するを得るに足るものあり、となす。武士道の我国民、特に士林に印象したる性格は、之を以て種属の具有する不変の要素を形成するものなりと称するを得ずと雖、なお之れが活力を保有せることは、復た疑を容れず。武士道もしただ物理力に過ぎずとすとも、なお既往七百年の間に蓄積したる動量は、俄然停止するを得べきに非ず。武士道はただ遺伝によりてのみ継承したりとすとも、其感化の範囲はすこぶる広大ならずんばあらず。試みに思へ、仏国経済学者ケソン氏が、仮に一世紀を人間三代と定めて打算せば、『吾人は各自其血管中に、紀元一千年に生存したる、少くも二千万人の血液を伝ふるものなり』と云へるを。
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『墨子』耕柱公孟子曰く、「君子は作らず、術ぶるのみ」と。子墨子曰く、「然らず。人の其れ君子ならざる者は、古の善き者は誅がず、今や善き者は作らず。其の次に君子ならざる者は、古の善き者は遂げず、已に善有れば則ち之を作り、善の己より出でんことを欲す。今、誅ぎて作らざるは、是れ遂ぐるを好まずして作る者に異なる所無きなり。吾れ以為えらく、古の善き者は則ち之を誅ぎ、今の善き者は則ち之を作り、善の益ます多からんことを欲すと」と。
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尚書・伊訓惟れ元祀(げんし)十有二月乙丑、伊尹先王に祠(まつ)り、嗣王を奉じて祗(つつし)みて厥(そ)の祖に見(まみ)えしむ。侯甸(こうでん)の群后咸(みな)在り、百官己を総べて以て冢宰(ちようさい)に聴く。伊尹乃ち明らかに烈祖の成徳を言ひ、以て王を訓(をし)へて曰く、「嗚呼(ああ)、古(いにしへ)の有夏の先后、方(まさ)に厥の徳を懋(つと)め、天災有る罔(な)し。山川鬼神も亦寧(やす)からざる莫(な)く、鳥獣魚鼈(ぎよべつ)に暨(およ)ぶまで咸若(したが)ふ。其の子孫に于(お)いて率(したが)はず、皇天災を降し、手を我が命有るものに仮る。攻を造(はじ)むるは鳴条よりし、朕が哉(はじ)めは亳よりす。惟れ我が商王、聖武を布昭し、虐に代ふるに寛を以てし、兆民允(まこと)に懐く。今王厥の徳を嗣ぐは、初めに在らざる罔し。
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説苑・修文春秋に曰く、「壬申、公高寢に薨ず。」傳に曰く、「高寢とは何ぞ?正寢なり。曷為れぞ或いは高寢と言い、或いは路寢と言うか?曰く、諸侯の正寢三つ、一に曰く高寢、二に曰く左路寢、三に曰く右路寢。高寢とは、始めて封ぜられし君の寢なり。二つの路寢とは、體を繼ぐ君の寢なり。其の二つなるは何ぞ?曰く、子父の寢に居らず、故に二寢あり。體を繼ぐ君は世世高祖の寢に居るべからず、故に高寢有り、名づけて高と曰う。路寢其の立つこと奈何?高寢中に立ち、路寢左右す。」と。春秋に曰く、「天王成周に入る。」傳に曰く、「成周とは何ぞ?東周なり。然らば則ち天子の寢奈何?曰く、亦二つの承明あり、體を繼ぎ文を守る君の寢、左右の路寢と曰う。之を承明と謂うは何ぞ?曰く、明堂の後に承くる者なり。故に天子諸侯三寢立ちて名實正しく、父子の義章らかに、尊卑の事別れ、大小の德異なるなり。」

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