孔子家語 / 曲禮子貢問
孔子在衛,衛之人有送葬者,而夫子觀之曰:「善哉,為喪乎?足以為法也,小子識之。」子貢問曰:「夫子何善爾?其往也,如慕;其返也,如疑。」子貢曰:「豈若速返而虞哉?」子曰:「此情之至者也,小子識之,我未之能也。」
新字:孔子在衛,衛之人有送葬者,而夫子観之曰:「善哉,為喪乎?足以為法也,小子識之。」子貢問曰:「夫子何善爾?其往也,如慕;其返也,如疑。」子貢曰:「豈若速返而虞哉?」子曰:「此情之至者也,小子識之,我未之能也。」
書き下し
孔子、衛に在り、衛の人に葬を送る者有り、夫子之を観て曰く、「善いかな、喪を為すや、以て法と為すに足るなり、小子之を識せ」と。子貢問いて曰く、「夫子何ぞ爾を善しとするや。其の往くや慕うが如く、其の返るや疑うが如し」と。子貢曰く、「豈に速やかに返りて虞するに若かんや」と。子曰く、「此れ情の至れる者なり、小子之を識せ、我未だ之に能わざるなり」と。
現代語訳
孔子が衛にいたとき、葬列を見送る人々がいた。孔子はそれを見て、「見事だ、この喪の営みぶりは。手本とするに値する。お前たち、よく覚えておきなさい」と言った。子貢が「先生はなぜこれをよいとされるのですか」と尋ねた。行きは死者を慕うようにゆっくりと歩み、帰りはまだ死を信じきれないかのようにためらいがちに歩む、その様子がよいのだと孔子は言った。子貢は「それなら、いっそ早く帰って虞祭(埋葬直後に行う魂を鎮める祭)を行った方がよいのではないでしょうか」と尋ねた。孔子は言った。「これこそ真心の極まった姿だ。お前たち、よく覚えておきなさい。私自身はまだそれができていないのだ。」
解説
この場面は『礼記』檀弓篇にも見える有名な逸話です。葬列に送られる遺族が、行きは死者を慕うようにゆっくりと、帰りはまだ死を受け入れられないかのようにためらいがちに歩む、その自然な足取りにこそ、喪における真心の極まった姿が表れていると孔子は評価しています。子貢が儀礼の効率性を問うたのに対し、孔子は形式的な合理性よりも、悲しみが体の動きに自然と滲み出ることの尊さを説きました。さらに孔子自身が「まだそれができていない」と謙虚に語る点も印象的で、理想の礼と自らの実践との距離を率直に認める姿勢が窺えます。
この章句が説くこと
送葬情の至り礼記檀弓謙虚
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