孔子家語 / 七十二弟子解
梁鳣,齊人,字叔魚,少孔子三十九歲。年三十未有子,欲出其妻。商瞿謂曰:「子未也,昔吾年三十八無子,吾母為吾更取室。夫子使吾之齊,母欲請留吾,夫子曰:『無憂也,瞿過四十,當有五丈夫。』今果然,吾恐子自晚生耳,未必妻之過。」從之,二年而有子。
新字:梁鳣,斉人,字叔魚,少孔子三十九歳。年三十未有子,欲出其妻。商瞿謂曰:「子未也,昔吾年三十八無子,吾母為吾更取室。夫子使吾之斉,母欲請留吾,夫子曰:『無憂也,瞿過四十,当有五丈夫。』今果然,吾恐子自晩生耳,未必妻之過。」従之,二年而有子。
書き下し
梁鳣は、齊の人、字は叔魚、孔子より少きこと三十九歲。年三十にして未だ子有らず、其の妻を出さんと欲す。商瞿謂いて曰く、「子未だしきなり、昔吾年三十八にして子無く、吾が母吾が為に室を更取せしむ。夫子吾をして齊に之かしむるに、母吾を留めんことを請わんと欲す。夫子曰く、『憂うる無かれ、瞿四十を過ぎて、當に五丈夫有るべし』と。今果たして然り、吾恐らくは子は自ら生まるるの晚きのみ、未だ必ずしも妻の過ちにあらず」と。之に從い、二年にして子有り。
現代語訳
梁鳣は斉の人で、字は叔魚といい、孔子より39歳年下であった。30歳になっても子がなかったため、妻を離縁しようとした。商瞿が彼に言った。『まだ早い。昔、私が38歳で子がなかった時、母が私のために新たに妻を迎えさせようとした。先生が私を斉へ行かせることになった際、母は私を留めておきたいと願い出ようとしたが、先生は「心配することはない、瞿は40を過ぎれば必ず5人の男子を授かるだろう」と言われた。今、まさにその通りになった。あなたも子が生まれるのが遅いだけで、必ずしも妻の過ちではないだろう』と。梁鳣はこれに従い、2年後に子を授かった。
解説
この一文は、子に恵まれないことを妻の責任と考えて離縁しようとした梁鳣を、先輩弟子の商瞿が自らの体験談と孔子の予言を引き合いに出して思いとどまらせた逸話です。当時、子ができないことは妻の側の落ち度とみなされ、離縁の正当な理由(七出の一つ)とされる風潮がありましたが、商瞿は自らも38歳まで子がなかったこと、そして孔子が『瞿は40を過ぎれば5人の男子を授かる』と予言し実際にその通りになった経験を語り、子の遅い誕生は必ずしも妻のせいではないと梁鳣を諭しました。結果として梁鳣は妻を離縁するのをやめ、2年後に子を授かったとされています。この逸話は、短絡的な原因帰属によって重大な決断(離縁)を下すことの危うさと、経験に基づく先輩の助言がそれを思いとどまらせる力を持つことを示しています。現代においても、うまくいかない事態の原因を一方的に決めつける前に、時間の経過や他の要因を考慮する冷静さの大切さを教えてくれます。
この章句が説くこと
梁鳣商瞿離縁七出子授かり
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