孔子家語 / 五儀解
公曰:「敢問何如斯可謂之庸人?」孔子曰:「所謂庸人者,心不存慎終之規,口不吐訓格之言;不擇賢以托其身,不力行以自定;見小闇大,而不知所務;從物如流,不知其所執;此則庸人也。」
新字:公曰:「敢問何如斯可謂之庸人?」孔子曰:「所謂庸人者,心不存慎終之規,口不吐訓格之言;不択賢以托其身,不力行以自定;見小闇大,而不知所務;従物如流,不知其所執;此則庸人也。」
書き下し
公曰く、「敢えて問う、何如なるをか斯れ庸人と謂うべき。」孔子曰く、「所謂庸人なる者は、心に慎終の規を存せず、口に訓格の言を吐かず。賢を択びて以て其の身を托せず、力行して以て自ら定めず。小を見て大に闇く、務むる所を知らず。物に従うこと流の如く、其の執る所を知らず。此れ則ち庸人なり。」
現代語訳
哀公が「あえてお尋ねしますが、どのような人物を庸人と呼ぶべきでしょうか」と尋ねると、孔子は答えた。「いわゆる庸人とは、心に物事を慎重に見極め最後まで見通す規範を持たず、口から手本となるような言葉を発することもありません。賢者を選んでわが身を託すこともなく、努力してみずからの生き方を定めることもありません。小さなことにばかり目を向けて大きなことに疎く、自分が何をなすべきかを知りません。物事に流されるままに従い、自分が何を大切に守るべきかも分かりません。これが庸人なのです。」
解説
五儀の第一段階「庸人」が定義されます。特徴として挙げられるのは、物事を深く見通す規範の欠如、賢者に自らを託せない孤立、努力による自己確立の不在、そして目先のことに囚われて大局を見失う視野の狭さです。とりわけ「物に従うこと流の如し」という一句は、確固たる自分の軸を持たず、周囲の状況や他人の意見に流されるままの生き方を象徴的に表しています。この庸人像は、現代においても、主体性を欠いたまま日々を惰性で過ごすことの危うさを映す鏡として読むことができます。
この章句が説くこと
五儀庸人主体性哀公孔子
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