近思録 / 巻4 存養
呂與叔嘗言患思慮多、不能驅除。曰:此正如破屋中禦寇、東面一人來未逐得、西面又一人至矣。左右前後、驅逐不暇。蓋其四面空疎、盜固易入。無緣作得主定。又如虛器入水、水自然入。若以一器實之以水、置之水中、水何能入來?蓋中有主則實、實則外患不能入、自然無事。
新字:呂与叔嘗言患思慮多、不能駆除。曰:此正如破屋中禦寇、東面一人来未逐得、西面又一人至矣。左右前後、駆逐不暇。蓋其四面空疎、盗固易入。無縁作得主定。又如虚器入水、水自然入。若以一器実之以水、置之水中、水何能入来?蓋中有主則実、実則外患不能入、自然無事。
書き下し
呂与叔嘗て言う、思慮の多くして駆除する能わざるを患うと。曰く、これ正に破屋の中に寇を禦ぐが如し。東面に一人来たりて未だ逐い得ざるに、西面に又た一人至る。左右前後、駆逐に暇あらず。蓋しその四面空疎なれば、盗は固より入り易し。主を作り定むるに縁無し。又た虚器を水に入るるが如し、水自然に入る。若し一器にこれを実たすに水を以てし、これを水中に置かば、水何ぞ能く入り来たらん。蓋し中に主有れば則ち実つ。実つれば則ち外患入る能わず、自然に無事なり。
現代語訳
呂与叔がかつて、思い煩いが多くて追い払えないのが悩みだと言った。答えて言う。それはちょうど、壊れた家の中で盗賊を防ぐようなものだ。東側から一人来て、まだ追い出せないうちに、西側からまた一人来る。左右前後、追い払う暇もない。四方ががら空きなのだから、盗賊はもとより入りやすい。主を定めようがないのだ。また、空の器を水に入れれば、水は自然に入ってくる。だが一つの器を水で満たして水中に置けば、どうして水が入ってこられよう。中に主があれば満ちる。満ちていれば外からの患いは入ってこられず、おのずと無事なのである。
解説
雑念に悩む弟子への答えである。診断が的確で、追い払えないのは追い方が下手だからではなく、家が壊れているからだ、と。四方ががら空きなら、いくら追っても次が入る。だから対処は追い出すことではなく、中を満たすことになる。空の器は水に沈めれば水が入るが、水で満たした器なら入ってこない。防ぐのではなく、先に占めておく。集中とは雑念を消す技術ではなく、心の中に主を立てる技術だという見方である。近思録の巻四「存養」は、この主を立てる工夫を集めた巻で、朱子学が敬を重んじる理由もここにある。
この章句が説くこと
破屋の中に寇を禦ぐ中に主有れば実つ虚器に水入る存養
関連する章句
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『近思録』巻4 存養人心の主を作すこと定まらざるは、正に一箇の翻車の如し。流転動揺して、須臾も停まる無し。感ずる所万端、若し一箇の主を做さずんば、怎生か奈何せん。(中略)人有り、胸中に常に両人有るが若し。善を為さんと欲すれば、悪有りて以てこれを間つるが如し。不善を為さんと欲すれば、又た羞悪の心有る者の若し。本と二人無し。これ正に交戦の験なり。その志を持してその気をして乱す能わざらしむ、これ大いに験すべし。これを要するに、聖賢は必ず心疾を害わず。
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伝習録・陳九川録九川問う、「近年、泛濫の学を厭うに因り、毎に静坐して、念慮を屏息せんことを求めんと要す。惟だ能わざるのみならず、愈々擾擾たるを覚ゆ。如何」と。先生曰く、「念、如何ぞ息(や)むべけんや。只だ是れ正しからんことを要す」と。曰く、「当に自ら念無き時有るべきか否か」と。先生曰く、「実に念無き時無し」と。曰く、「此くの如くんば却って如何ぞ静を言わん」と。曰く、「静は未だ嘗て動かざるにあらず。動は未だ嘗て静ならざるにあらず。戒謹恐懼は即ち是れ念なり。何ぞ動静を分かたん」と。曰く、「周子は何を以て『之を定むるに中正仁義を以てして静を主とす』と言うか」と。曰く、「欲無し、故に静なり。是れ『静も亦た定、動も亦た定』の定の字なり。其の本体を主とするなり。戒懼の念は、是れ活潑潑地なり。此れ是れ天機の息まざる処なり。所謂る『維(こ)れ天の命、於(ああ)穆として已まず』なり。一たび息まば便ち是れ死なり。本体の念に非ずんば、則ち是れ私念なり」と。
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伝習録・陸澄録問う、「寧静にして心を存する時は、『未発の中』と為すべきや否や」と。先生曰く、「今人の心を存するは、只だ気を定め得るのみ。其の寧静なる時に当たりても、亦た只だ是れ気の寧静なるのみ。以て『未発の中』と為すべからず」と。曰く、「『未』は便ち是れ『中』なり。亦た是れ『中』を求むるの工夫ならざるか」と。曰く、「只だ人欲を去り天理を存せんことを要すれば、方に是れ工夫なり。静なる時に念念に人欲を去り天理を存し、動なる時に念念に人欲を去り天理を存す。寧静なると寧静ならざるとを管せず。若し那の寧静に靠(よ)らば、惟だ漸く静を喜び動を厭うの弊有るのみならず、中間の許多の病痛、只だ是れ潜伏し在り、終に絶ち去る能わず。事に遇わば旧に依りて滋長せん。理に循うを以て主と為さば、何ぞ嘗て寧静ならざらん。寧静を以て主と為さば、未だ必ずしも理に循う能わず」と。
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